2章 雪兎と冬燕6

「駄目です」


 敬語に、何故か敬語で返す。

 首を振り、間髪入れずに拒否したクローネに、ライラは上目遣いで唇を尖らせていた。

 ……えぇ。

 そんな顔をされても困る。

 本来師弟関係を結ぶならば、引退した選手に頼むものだ。わざわざライバル同士で手の内をさらけ出し合うような真似はしない。

 それに、


「私、まだ二戦しかしてないから教えられることなんてないわ」


 クローネは引き剥がすようにライラの胸を押す。女性らしい柔らかさに若干の羨望を覚えていた。

 ……やっぱいいもの食ってんのかなぁ。

 細くしなやかな四肢に控えめだが存在感のある胸部。二つ年下なのに傍から見ればどちらが年上かが逆転していた。

 この二年でのクローネの背の成長は微々たるものだった。その代わり筋肉と体重ばかりが増え、女性らしさが薄れている。

 そのせいでドクターからはゴリラ呼ばわりが続いていた。仕事柄力があればあるほどいいとはいえ、女を強く意識し出す年齢でもあった。


「そうですか……」


 名残惜しいと表情で語る。

 無理なものは無理なのだ。人の面倒まで見るほどクローネも余裕がある訳では無かった。

 ライラは黙り込む。深く顎を引いて、小さく唸ると、


「なんとかなりませんか?」


 クローネの服の襟を掴み懇願する。

 どれだけお願いされても答えは変わらない。そもそもメリットが無さすぎる。そう伝えようとした時、


「私には他に頼れる人がいないんです」


 ……そうかぁ。

 深く皺が寄る程の力が首から伝わる。脅しにも見える体勢のまま、クローネは逆らうことなくはにかんでいた。

 引退した選手は数多くいる。しかしその全てが中層にしかいない。ライラには一切のツテがなく、それでもレースに挑戦する気力があった。

 凄いと思うと同時に何故なのかと頭に浮かぶ。軽々しくやりますでできるものでは無いからだ。


「なんでドロッパーに乗りたいの?」


 クローネの言葉が至近距離で突き刺さる。

 ライラは手の力を抜き、三秒考えて、


「可愛くないですか? あと飛んでる時気持ち良さそうだから……ってこんな理由じゃだめですか?」


 躊躇いがちな態度が指に現れていた。

 分からんでもないなと、クローネは思う。

 どれだけバカにされようとドロッパーは文化だ。二百年研鑽し続けた結果、足りないながらも洗練されたフォルムには命が詰まっている。

 ライラの言い分は嬉しく感じても忌避感など湧くはずもなかった。少なくとも金目当てで飛んでいる自分などとは比べ物にならないほど眩くて、クローネは視線をさ迷わせる。

 もっと純粋だった頃はあったのだろうか。


「……いいよ」


 根負けだ。疲労の見える青い息を吐いて、クローネは頷く。


「師匠でもなんでもって訳にはいかないけどね。知ってることなら教えてあげる。また無茶して死なれても困るし」


「本当ですか!?」


 弾けるような笑みを浮かべるライラの瞳から飛び出した星がクローネに刺さる。

 いちいち仕草が可愛らしく、対象的な我が身と比べてクローネは失笑していた。

 ……まぁ、いっか。

 喜悦は病よりも早く伝染る。悪意のない透明な笑顔に全てが馬鹿らしくなる。

 ただ、


「あんまり期待しないで。少なくとも勝たせる方法だけは特にね」


「それは、秘密ってことですか?」


 クローネは首を横に振る。

 そんなこと秘密にする必要すらない。最も簡単で最も難しい事だからだ。

 手を前に出し、指を二本立てる。


「勝つ方法なんて、周りが自滅するのを期待してドンガメで行くか血を燃やして進むしかないもの。だから教えられるのは事故しない注意点だけよ」


 その先はいかに自分の中で折り合いをつけていくしかない。航空力学だ燃料効率だ姿勢制御だと御託を並べても早すぎず遅すぎずを決めるのは自分でしかなかった。

 酷かもしれない宣言にライラは虚空を見つめていた。焦点の合わない目が宙をさまよい、最後にはクローネの瞳に戻ってくる。


「でもそれって一番大事ですよね」


「いや、まぁそうなんだけど」


 欲がないのか。クローネは空虚な笑いを顔に貼り付ける。

 ライラにとってドロッパ―に乗れることが大事なのであって勝敗は二の次のようにも感じられる。周りからしたら喧嘩を売っているようにもとられない態度だが、

 ……一人くらいいいのかなぁ。

 純粋の塊を前にして、判断がつかず頭を傾げるしかなかった。


「それでいいならいいわ。師匠呼びされてもむずがゆいし」


「はい……じゃあ友達ですね」


 ……友達?

 そうだろうか。逡巡した気持ちが手に現れる。所在なさげに彷徨う指が、置き場を求めて唇に触れていた。

 友達。友達かぁ。

 一瞬だけ天を仰いでみる。生き急いでいたわけではないが、過去の交友関係で明確に友と呼べる人間をクローネは思い浮かべることが出来ない。

 アグは親方、グスクは同僚。レンは兄でキキョウは姉。ドクターは変人、ソクラティスは師匠だ。


「なんか、調子狂うわ」


「駄目ですか?」


 素朴な感想を聞いてライラが見つめてくる。憂いの浮かんだ湿気の多い瞳に、クローネは頬を朱に染めてそっぽ向くしかできなかった。

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