2章 雪兎と冬燕5

「……ん」


 寝台に横たわる少女が身をよじる。木漏れ日のような柔らかい声が漏れていた。


「起きた?」


 クローネが声をかけると薄ぼんやりとした瞳が線を裂いて光る。

 心が浮遊している。まだはっきりしない意識が戻るのをクローネは手を握りながら待っていた。

 五分ほどだろう、今の状況を理解し、何があったかを噛み砕いた少女が気だるげに顔を向ける。


「……失格、ですか?」


「そだね。大破だよ」


 そこに慰めはなかった。

 いずれは知ることだ。クローネは自分の身よりもレースの結果を知りたがる少女に、この場を和ませるだけの戯言を言う気にはなれなかった。

 少女は下唇を噛んでいた。瞳は水の中で揺れ動き、肩が鼓動よりも早く震えている。それでも一滴たりとも涙をこぼさず、


「教えてくれて、ありがとっ……ございます」


 嗚咽混じりの声をクローネに投げていた。

 ……強いなぁ。

 本当なら泣きじゃくりたいはずだ。それを他人に見せることなく自分の心の中に大事にしまっている。次への火種にするために。

 自分だったらそんなことが出来るのかと自問する。

 ……あんまり変わんないかも。

 二年前、同じ場所で同じような状況になった時、自分はどうしたのか。それを思いだし、青臭さに苦笑する。

 鏡写しの自分を見ているようだ。妹がいたらこんな感じなのかと想像しながらクローネは手を差し伸べる。


「名前は?」


「……ライラ。ライラ スタッドブルムです」


「私はクローネ。クローネ ツインバードよ。よろしく」


 ライラと言った少女はクローネの手を握り身体を起こす。

 ライラむらさき。名前の通りアメジストの瞳と細い長い白糸の髪が灯りに揺れていた。

 クローネは起き上がったライラに背中を合わせるように寝台に腰を置く。燃えたコールタールの着いた服は切り取られ、大きく背中が晒されていた。

 雪の肌には汗が滲み、落としきれないすすが模様を描く。そういえばとクローネは自分の髪に触れていた。

 耐火性の油をつけた髪でもところどころちぢれている。手で雑に梳けば、細かい灰混じりの毛髪が掌を汚していた。


「ありがとうございます」


 背中が声で震える。

 クローネはそれに、ん、とだけ答えて身体を傾け、ライラの肩を抱いていた。


「次があるよ。生きてるんだから」


「……はい」


 相変わらず人気の無くなった五階は寒い。二人は体温を交換するように肌を重ねていた。





「へぇ、ライラって下層の人なんだ」


 冷静さを取り戻したライラとクローネは二、三言葉を交わしていた。

 本来ならば下層の人間はレースには出ない。出てはいけない訳ではなく、出ようと思う人がいないからだ。

 この二年で交流が増え、垣根が薄くなった。山中病もわざわざ寒すぎる上層まで行かずとも中層二階以上で治るのだから、お出かけ感覚で中層にくる下層の人も増えていた。

 住み心地にそれほど大きな差がないらしく、危篤な人が中層に住み着く事例もあり、自ずとレースの存在が露見していく。その第一号がライラだった。


 ……珍しい。

 クローネは熱したゴムのように態度が軟化したライラの話を聞きながら考える。

 師匠であるソクラティスはドロッパーレースは受け付けないと言っていた。下層の人間には理解できない娯楽なのかと思っていたらそうでも無いらしい。

 どちらがスタンダードかは分からないが、何となくライラは変わっているように見えていた。


「火の中まで入って助けてくれたんですよね?」


 思考の海を漂っていると、ライラが話しかけてくる。

 クローネは軽く頷いて、


「そだね。もうちょい勉強した方が良かったと思うよ。教えてくれる人とかいないの?」


 問いかけにライラは首を可愛らしく横に振る。

 ドロッパーはなかなかに言うことの聞かないじゃじゃ馬だ。細かいミスがすぐに事故に繋がってしまう。

 だからこそ、経験豊富な先達に教えを乞うことが常識になっていた。

 ただクローネには師はいなかった。だから独学で設計図を睨みつけ、血肉としてきた。もしいたらバイラル型の機体に乗ることを良しとしなかっただろう。

 人の事は言えないとはわかっていても事情がなければ師事を仰ぐべきである。下層の人間なら金はあるはずだからだ。


「あっ……」


 あっ、て……

 ライラはバネのように頭をあげると口を半開きにして目を見開いていた。

 顔が近い。吐息すら聞こえてきそうな距離だ。

 向き合い、すぐに辰砂しんしゃ色に頬を染めて身体を縮ませるライラに、クローネはため息をつく。

 つくづく似ている。若干のむず痒さに座りを直していると、


「やっぱり師って大事ですよね」


 そりゃそうだとクローネは頷く。

 少なくとも経験は裏切らない。設計図だけでレースに勝てるならその図面を引いた者が優勝するに決まっているからだ。

 床を見つめ考え込むライラは、ごろごろと喉を鳴らしたあと顔を上げる。

 目には力が入り、薄い微笑を貼り付けた顔は絵になる程に愛らしい。ただ幼さの残る表情が、やんちゃな子供の前兆に見えて、クローネは頬を引き攣らせていた。


「クローネさん、師匠と呼んでもいいですか!?」

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