1章 エピローグ
……吐きそう。
胃をひっくり返すほど大きくえづくクローネは腰を下ろして地面に寝そべる。
距離にして百メートルちょっと。一時間以上をかけて牽引した機体は雪風の当たらない坑道の中へと仕舞われていた。
「ありがとな」
すぐ横にはソクラティスが座っている。負い目のようなものを表情に浮かんでいた。
別に、とクローネは力なく首を振る。すべきこと、したいことが一致しただけだ。もう一度と言われたら断固拒否するが、健気に頑張ってくれた可愛い子供を外に放置などできるはずもない。
針金のような腕、尖った肩、病人に無理はさせられない。ソクラティスを気兼ねなくこき使う為にはまず快癒してもらう必要があった。
「その機体、お前にやる」
「……冗談なら笑えないよ」
真面目な声に薄ら寒い笑いで返す。
分かる。分かるのだ。この
手放すというのなら相応の理由が必要だ。
それに対しての返答は、
「疲れたんだ。そんな俺にこいつを付き合わせるには勿体ないだろ」
あぁ……
クローネの心に氷柱が刺さる。目標であった空を一瞬とはいえ見てしまった。その時自分も何かが終わった感覚を覚えていた。
それと同じであるならば、強くは言えない。夢から覚めれば次に待っているのは現実だ。次の夢を育む時間が必要だった。
私は……
私はどうだろうかとクローネは思案する。
熱は冷め、固まり始めている。再度ドロドロに溶かすには何が必要なのか、まだわからない。
だから、
「一緒にまた空に行こうよ」
寄りかかることを選んだ。
差し伸べた手を、迷いが取ることを躊躇わせる。
黙り込んだソクラティスに、立ち上がり近寄ると、クローネはその棒きれのような身体を包み込む。
「一人じゃ無理でも二人なら何とかなるって。それまでこの子には申し訳ないけど待ってもらおう」
触れただけで折れてしまいそうな身体に、微かに熱を感じる。
揺れ動く瞳をクローネも見つめ返す。今日まで頑張ってきたんだ、今日からまた頑張ればいい。
身体を重ねると死体のように白い肌に色がつく。良かったと安堵の笑みを浮かべると、ソクラティスが口を開く。
「汗臭いな」
「ぶっ殺す」
今日一番の狂気の笑顔を浮かべたクローネは、大きく背を反らしてから反動をつけて頭をぶつけていた。
「戻るわ」
ヒリヒリと痛む額をさすりながらクローネは言う。
それは男のデリカシーの無さは何処でも変わらないことへの不満を五分ほど強く語ったあとだった。立ち上がり、黒の羽を一瞥して入ってきた凍扉に向かう。
後ろを同じく額に赤い斑点を浮かべたソクラティスが着いてくる。目には薄い涙を浮かべて、辛気臭い顔が一層険しさを増していた。
固く閉じた鉄扉には変わらず霜が浮いている。クローネは入ってきた時と同じように全力で引き開く。
鉄の軋む音と共に、隙間から漏れ出る光が筋になる。それは徐々に太く、筋から線へと、そして帯に変わる。
その奥に見えたのは無数の瞳だった。
「えっ──」
視認して、クローネの思考が止まる。
なんで人がいるのか。誰なのか。分からないが駆け巡る。
口からはモヤのような言葉が溢れ出て形を作らずに霧散する。代わりに扉の向こうから好奇の視線と細やかな囁きがさざ波となって押し寄せていた。
……あっ。
気づく。気づいてしまう。
……これって、まずくない?
クローネは目を見開いて息を飲む。そして油の切れた機械のようにぎこちなく振り向く。
見えるのは一人の男性と闇に同化した翼だ。そしてその奥には直接外へと繋がる道がある。
背中を押すように比較的暖かい風が吹き荒れる。クローネの心の中も荒んでいた。
死罪。バレなければ良かったものが囚人の目に晒されている。言い逃れのできない現場を押さえられて、逃亡しようにも退路は人垣によって虫も通れない。
途端に噴き出してきたヘドロのような不快な汗も気にせず、クローネは目配せする。ソクラティスはそれに軽く目を閉じて諦めたように首を横に振っていた。
……冗談きついって。
せっかく生きて戻ってきたのにこんな結末かと、視界が灰に染まる。正常に立っていることすら困難だった。
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