1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹18

 高度は無情にもどんどんと下がっていく。滑空を続けていても氷点下の世界では上昇気流を捕まえることも難しい。特に今日は風が凪いでいる。空気抵抗を少なくする羽根の形が仇になっていた。

 雲を抜けて広がる雪原が見えてくる。一面白が蠢いているせいで高さすら正確に判別がつかない。少しでも角度を間違えれば機体が頭から衝突するか尻から削れていく。

 ……大丈夫かな。

 クローネは操縦席に見える後頭部に視線を注ぐ。自信はありそうだけれど、経験はわからない。いやきっとないだろう、燃料にすら不自由をしているのだから。

 諦めが脳裏をよぎる。せめて目印になるものでもあれば──


「……あっ」


 ……見つけた。

 クローネが身を乗り出して外を見つめる。ガラスのように尖った目で見るのは薄い煙と不自然な体に悪い色だ。

 そういえばそんなものも投げていたっけと、頬を釣り上げる。頼りなく細い光は点線を描いて、確かにその存在を誇示していた。


「七時の方向、発煙筒あるよ」


「オーケー。よくやった」


 ソクラティスがハンドルを強く握る。それに合わせるように機体は斜めに傾き速度を上げる。風を薄く切りながら大きく弧を書いて進路を反転させていた。

 発煙筒を正面に捕らえた機体は光となって猛進する。

 ……早過ぎない?

 ドロッパ―の最高速にも匹敵するほどの速度は、安全に止まることを忘れていた。

 怪しい光が近づいてくる。同時に死神の鎌も喉元に当たっているようだった。


「やれんのっ!?」


 考えがあって加速している。クローネはそれを信じるしかなかった。


「掴まってろ」


 声は短い。焦りの浮かんだ声色が針のような緊張感を伝えていた。

 クローネは突起を探すが、身体を固定できそうなものは見当たらない。仕方なくレバーに身を絡ませるしかなかった。

 一つ、発煙筒を飛び越える。二つ三つと瞬く間に通りすぎた時だった。

 気付いたときには体が浮いていた。何が起こったのか理解するよりも風防にぶつかる頭の痛みのほうが早かった。


「くうぅ……」


 ……目玉飛び出てない?

 脳みそを撹拌シェイクされてまとまらない思考は、とりあえず被害報告を優先させる。

 強打したのは頭だけだ。あとは数回座席がはずんだ程度で大きな怪我は無い。

 何があったのか。微かに見えたのは曇天だったようにも思えて、結論に結びつく。

 ……やりやがった。

 古い記憶を紐解いてクローネはため息をつく。

 コブラ機動。機体を急速に立てて腹で風を受けて減速する。一歩間違えればそのまま後転して大事故に繋がる博打技。それをこの土壇場で決めたのだ。

 パイロットもパイロットながら機体も機体である。無茶な機動に急制動、真ん中からへし折れてもおかしくはなかった。

 その後はスキーと機体の支柱が折れないように接地と跳躍を繰り返して減速する。十分に減速した頃には坑道の入口に滑り込む寸前だった。


「はあぁ……」


 そのまま魂ごと抜けてしまいそうなため息が管から伝わる。

 無茶だ馬鹿だはもはや褒め言葉にしかならない。クローネは無言のまま、今更になってやってきた恐怖を抑えるように足を擦る。

 氷のように強ばり冷えきった足がじんわりと溶けていく。

 ……あれ?

 それは安堵か、喜悦か。緩んだ頬を暖かく輝く雫が零れていく。

 一滴、一滴。気まぐれな雨が本降りに変わるまでそう時間はかからなかった。

 

「やったよぉ……そら、ちゃんとあったよ」


「だな」


 相変わらずの返答だ。しかし今はそれすら気にならない。

 置物となった機体の中でクローネは涙が枯れるまで膝を抱えていた。





「──ぃいっしょぉ!」


 風と雪が強くなっていた。辺りは暗さを増し、陽は落ちた。

 広がる雪原にも影が色をつけ、暗黒色に染め上げる。

 漆黒の翼も闇夜に溶け込み、姿を消していた。ただその先端には鉄鎖が巻き付けられ、たわむことなくキリキリと金属音を響かせていた。

 鎖の先には小さな少女の姿があった。脛まで雪に足をとられ、肩や頭を薄い雪で化粧している。腹には何重にも鎖が巻かれ、鎖骨に食い込む鉄の痕が痛々しい。

 クローネだ。沈黙を続ける飛行機を雪に埋もれさせる訳にはいかない。他に燃料などあるはずもなく、自力で坑道まで戻す以外の方法は霧と消えていた。

 ……重い。

 平地とはいえ地面を擦って走らせるのは骨が折れる。意地悪な雪に足を取られないよう一歩踏み込んでは、身体を前に倒して数センチだけ進む。泥臭くそれを繰り返すしかない。


「大丈夫かぁ?」


 遠く、目的地から声がする。

 視線を足元に向けているクローネは大きく首を振ることしか出来ない。静まり返る極寒の中でも蒸し風呂の中のように汗が流れ、左右に飛び散る。それは地面の雪に当たると大きな粒となって穴を開ける。

 ソクラティスは手伝わない。いや手伝えないのだ。無理のし過ぎでもはや歩くことすらままならず、無意味な声援を浴びせる玩具になっていた。

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