1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹17
黒き翼は灰の空を目指す。
天に座する雲の前には塵に等しくも、蒼き尾を引いて大気を穿つ姿は黒曜の矢であった。
が、中にいる二人にそんなことを言っている余裕はない。
ほぼ直角に急加速を続ける機体は、凍てつく空気を裂いて進む。シートに縛り付けられたように動けないクローネは肺が押し潰されて空気もまともに吸えない状況だった。
……きっつ。
横と縦ではこれ程までに違うのかと、胸を張って気道を確保しながら思う。気合いを入れていないと全身が丸まって鉄球にでもなりそうだった。
雲との距離はどんどんと縮まっていく。気づけば低い位置にある雲はとうに横を流れ、そのうち深い闇に食われていく。
見えないわけではない。ただ鬱蒼とした霧のような暗さが何処までも広がっていた。
全てのセレクタスイッチを最大まで捻り、クローネは疑問を口にする。
「あとどのくらい飛んでいられるの?」
どうにか絞り出した声はかすれと震えで言葉にならない。その不自由さに気分を悪くして連絡管をどうにか持ち上げたつま先で叩く。
酸化剤に水はいくらかあれどアグニの花はたった一つ。
……あれ?
反応がない。そういえばしばらく声を聴いていないことを思いだす。
機体は風に流されることなく上を向いている。操縦桿を離していることはないだろうが返答がないことが深い疑惑を呼んでいた。
一瞬脳裏に最悪がよぎる。このまま燃料が尽きれば尻から真っ逆さまだ。
やはり病人には無理があったかと思った時、がくんと機体が震え、身体が宙を浮く。
「起きろっ!」
クローネは楽になった肺いっぱいに空気を吸い込んで、大きく吐き出していた。
燃料切れだ。まだ惰性で上昇しているがそれも近いうちに限界が来る。
身の危険が迫っていた。それ以上に──
……届かない、か。
クローネは先を見据える。
明言に困るのは減速こそしているもののまだ機体は泥臭く上を目指すことを止めていないからだ。出涸らしのようなプラズマで水を分解して、内に秘めた熱意で燃やしている。
そんな健気な可愛らしさを愛おしく思うと同時に出来ることのない自分を恥じる。まだこの子が諦めていないのに弱気になるのは搭乗者として失格だ。
「……頑張れ」
頑張れ。そのささやかな祈りに呼応するように、黒き翼は最後の足掻きを見せる。
真っ白なキャンパスが広がっていた。天高くある太陽からは純白の光が降り注いでいる。
果てが見えないほどの広大な雲海は夜凪のように穏やかでガラス玉のように澄んでいた。
だとすればほんのわずかな時間、シミのような黒点が顔を覗かせたとしても誰も気づかない。楽園は未だ手付かずのまま白き花を咲かせていた。
見えた!
クローネは歓喜に打ち震える身を抱きしめる。
一秒もない、その瞬きの間でも雲を突き抜けて空を見た。
蒼穹は確かに存在していた。
……やった。やったよ。
重力に引かれる機体を労わるように撫でる。それにとどまらず全身を使って抱きついていた。
笑みが収まらない。興奮が冷めることがない。 強く握りしめた拳をやたらめったらに振る。溢れ出る気持ちを表現するのにそれすら足らない様子だった。
「見えたか?」
突然落ちてきた言葉にクローネは凍ったように身体を固まらせていた。
「生きてたの?」
「あぁ、一瞬落ちてただけだ」
一瞬だったかなと、首を傾げる。随分長いこと反応がなかったように思えて、疑惑が脳内を駆け回る。
ただそんなことよりと、クローネは頭を振る。余分なことに頭を割く余裕が無いからだ。
「貴方は見えたの?」
「ああ、一瞬だけだったがな。あの光景が目について離れねえ」
分かるとクローネも頷く。
感動を分かち合えることが何よりも嬉しい。ここが平地であるならば恥ずかしげもなく抱きついていたことだろう。ただ今は落下中、あれからセレクタスイッチをいくら弄っても機体はなんの返事もよこさない。
空へ行くためなら死んでも構わない気持ちではいた。かと言って積極的に死にたい訳では無い。
「これからどうする?」
横を流れる雲を横目に尋ねる。
どうすることも出来ないと言われたらどうしようと、乾いた笑いを浮かべる。やりきった、やりきってしまった。触れれば火傷する熱意が今は冷えきって、深く考えるのも億劫になっていた。
「帰るぞ」
「燃料ないよ?」
「
ソクラティスはそう言うと天を向いていた機首を下げていく。風の抵抗を受けて急減速した機体に慣性で押し潰されそうになる。
……むぅ。
首が肩の中に入りそう。顔に深い皺を作るクローネは重圧に抗いながらただ耐えるしか無かった。
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