1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹16

「一番前のセレクタスイッチで速度調整だ。前についてる温度計サーモメーターを見て千度を超えないように後ろ二つを調整しろ。あ、五百度以上は必ず上回れよ」


 矢継ぎ早に飛んでくる指示よりも、巨人に背中を押されているような重圧にクローネの頬が緩む。動いている、乗っている。その歓喜がざわざわと足の先から頭まで疼いていた。

 ゆっくりと上昇するサーモメーターの針に合わせて、速度も上がっていく。置き去りにされた足場はバランスを崩し、金属音を響かせて地面に転がっていた。

 前方の風防が下がる。クローネも掴むために腰を浮かすと、


「わぁ……」


 ふと見えた景色に感嘆の声を出す。

 出迎えたのは白銀の大地だった。天蓋のような雲は、わずかな隙間から陽の光が剣のように大地に突き刺さる。万年吹雪いているはずの外界は地平の先まで遮るものなく続いている。

 話と違う。拳程の雪礫が踊り狂い、闇夜と見間違うような暗く重い。手を伸ばせばその指先すら隠されて雪に食われるというはずが、目の前は天上の雲海のように澄み輝いている。


「綺麗……」


「風も少ないし雪もない。絶好のフライト日和だな」


 聞こえてきたのは少しくぐもった声だった。

 風防を下げたクローネは、サーモメーターの下に空いた穴を見つめていた。連絡管と呼ばれるただの金属管だ。そこから声が運ばれていた。

 滑走路には踏み固められた雪が敷き詰められている。機体の足はスキーのような平らな板を並列に履いていて、滑りながら前を行く。

 洞窟だ。剥き出しの岩肌を見つめながらクローネは思う。不自然に切り出された壁は自然によって削り取られたものでは無かった。

 カンラン石の光るアーチは二人を出迎えているようにも見える。二十メートルも続く道をソクラティスが掘った、いやそれは無理だろうと心の中で否定する。


「この横穴は誰が掘ったの?」


「しらん」


 非常に短い一言だった。

 運転に気を割いているのは分かる。それでもそれは無いだろうと頬を膨らませていると、


「大昔の坑道だ。当時の作業員の名前なんてどこにも残っちゃいない。あるのはこの穴だけだ」


「そんなはずない。外に繋がる坑道は全部潰したって──」


 聞いている。最後にその言葉をつけることが出来ない。

 原因はわかっている。目の前に広がる光景が、聞いていた話とは違うからだ。

 閉鎖された山の中では外のことなど又聞きでしかわからない。その人も又聞きで実際目にした人などいないに等しい。

 その情報も六百年の間に醸されたものだとしたら、今現在とどれほど乖離しているか分からない。

 何より、

 自分の目で見るために空へ行こうとしているんだから……

 雲に浮かぶ天体が今どうなっているのか。誰も見た事のない絵画を先んじて見る為に空を目指しているのに、伝聞を信じるだけでいいならその必要すらない。


「何事も例外はあるということだ。そろそろ飛ぶぞ、構えろよ」


 その言葉通り、サーモメーターが水素の発火点を過ぎた辺りで推す力がひとつ上がる。

 凄い……

 速度で言うならばドロッパーの方が圧倒的に速い。しかしエンジンから伝わる振動を肌で感じる感覚は空を飛ぶことを強く意識させていた。

 ガス灯とは違う灯りは、暗いはずなのに目が焼かれるほどに眩い。薄く瞳に水を張らないと潰れてしまうのではないかと思うほどに。


「ゆっくり速度を上げていくぞ」


「了解っ!」


 雪の大地に目を奪われながらも、クローネは指示に即座に従う。

 ツマミを捻れば機体は従順に速度を上げていく。既に外界へと飛び出している。一面白で埋め尽くされた世界は細かな凹凸を隠していた。


「左に発煙筒の束がある。下のハッチを開けて等間隔で投げ捨てろ」


「なんでっ!?」


「帰り道がわかんねえからだ!」


 加速するにつれて声が震え、騒音にかき消されていく。クローネは声を張り上げながら、なるほどと発煙筒の栓を抜いた。

 鮮やかな桃色の光と目の前が真っ白になるほどの多量の煙がコクピット内に充満する。火薬と金属の炎色反応の強い刺激臭に思わず咳込んでいた。

 ……死ぬ!

 風防は開けられない。一度速度に乗ったら閉じる風圧で閉じることが出来なくなるからだ。目に刺すような痛みを感じながらも元凶である発煙筒を憎らしげに地面へと落とす。


「換気は!?」


「んなもんない!」


「死ねっ!」


 罵声を前に投げつけながら次の発煙筒を着火する。涙で歪んだ視界に桃の花が咲いていた。

 ひとつふたつと落としていく。その間も速度やサーモメーターを注意深く見ていかなければならない。作業の多さにてんやわんやと忙しなく手を動かしていると、背中ではなく足先に力を感じていた。


「ローテート! 飛ぶぞ!」


 言い終わるよりも早く機首が上を向く。大地を見ていた視線が自然と空を見つめていた。

 絶望の死灰だ。虐殺の限りを尽くした大天幕が、クローネを見下ろしていた。

 ……薄くない?

 それは陽の光を遮っていた。しかし、それも全てでは無い。灰どころか一部白く薄い所も見え、まだら模様の皮膚病のようにも見えた。

 生命の敵と言うにはあまりにも弱々しく圧もない。引き攣るほどの寒気だけは健在だが、言ってしまえばそれだけだった。

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