1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹9
「なぁ、アグニの花って……」
あ、やばっ……
クローネは心臓をはね上げると同時にセルを開いて空ぶかしさせる。
スコッパーの周りは深い霧に包まれる。立ち込めるぬるい風に人足達が何事かと手を止めていた。
アグニの花については極力静かにしたかった。持っていて身体に害のあるものではないが、その希少性から要らぬ面倒に発展する可能性もある。
レンにだけならまだいい。問題はその周りにいる上層の人足だ。
日々の生活もままならないなら犯罪に対する忌避感も薄い。元々軽犯罪者も多くいるのだから歯止めなど気にする方が間違いだった。
「レン兄、ちょっとこの馬鹿借りてくね」
「あ、おい!」
レンが手を伸ばすが、それは空を掴むに留まる。
クローネは後方にアクセルを全開で吹かす。繋ぎの甘いスコッパーはガタガタと異音を響かせながら、小石の多い広場を横切っていく。
ついでとばかりに拾ったのはドクターだ。さも取ってくれと言わんばかりに晒されていた襟を掴んで持ち上げる。成人男性にしては羽のように軽く、想定よりも高く持ち上がった彼は引きずられないように足を百足のように動かしていた。
「がんばー」
気の入らない声で応援する。少しはいい薬だと、頬が緩んでいた。
ある程度距離をとり、レン達が小粒の宝石程に見えるあたりでクローネはスコッパーを止める。
ドクターは慣れてきたのか自分の足でついてきていた。鈍足のスコッパーに追いすがることは難しくない。ただ襟の代わりにクローネが手を握っているため逃げることだけは叶わなかった。
地面に手をついて、肩で息をするドクターをクローネは見下ろす。時折混じる嗚咽に、だらしないなと感想を抱く。
高々百メートルだ。朝の運動と言って子供でも中層の内周一キロを走り、無駄に溢れ出るエネルギーで発散しているというのに大の大人がこんなにも死にかけの蛾のように弱々しい姿を見せていていいのだろうか。
「おぇっ……はぁ、はぁ……マウンテンゴリラに捕まってしまった……」
「誰がゴリラよ、頭捻りちぎるわよ」
クローネはスコッパーのステップから降りる。
ちょうどいい高さにある頭に手を当てて、力を込める。こめかみにめり込んだ指に、インパクトドリルを当てたような悲鳴が木霊する。
……意外と余裕あるじゃん。
そろそろ本題に入ろうと、クローネは腰に下げた薄茶色のポーチから石を取り出す。
アグニの花だった。黒錆色の塊を鼻に近づけるも案の定香りはない。
鉄臭さも土臭さもない。すこし舌を当てて見ても味もない。視覚と触覚以外でその存在を定められない事に本当にここにあるのかと不安になる。
「なんだ、やはり持っているではないか」
しかしドクターは直ぐに顔を上げてアグニの花を食い入るように見つめていた。
うげぇと、クローネは眉をぐっと寄せる。
鼻が悪いと感じたことは無かった。人並み、もしくはそれ以上であるとなんの根拠もなく思っていた。
最も尊敬する知の塊であるアグでさえ、実物を見る前からアグニの花の存在に気づいてなどいない。一分野でも上層にいる変態がアグより上などと認めることをクローネは良しとしなかった。
「なんで分かるのよ。匂いなんてないはずよ?」
「ふむ。分かるのだから分かるのである。それよりもその石をくれないか?」
ドクターの提案にクローネはにっこりと微笑んでから中指を立てて見せつける。
馬鹿言うな。その気持ちを表情に乗せて。
価値などないかもしれないがそれでも変態に渡すのだけははばかられる。
しかしドクターは食い下がる。
「頼む! 貴様のような小娘よりは有効に使うと約束しよう」
顔の前で手を合わせ、頭を垂れるドクターの頭をクローネは叩く。
……それが人に物を頼む態度かっ!
ドクターからはどす黒い悪意のようなものは感じられない。善意、善意なのだ。心の奥底から紳士に頼み込んでいて、相手がそれに応じてくれるとしか思っていないのだ。
頭を抱えてうずくまり、小さく呻くドクターを見る。
上層の人間らしく、針金のように痩せて細い身体。髪は白く頬はこけ、大きく見開いた目だけが異様に印象に残る。
大きくなっただけの子供のようなものにクローネはため息をつく。少しだけ沸いた悪戯心のようなものがなめらかに口から飛び出していた。
「で、何に使うつもりなの?」
聞くだけ。聞くだけだ。
心中で二度言葉を繰り返す。
クローネの視界には痛みを忘れて顔を輝かせるドクターがいた。ついでとばかりに伸ばされた手を払い除ける。
馴れ合うつもりはない。受け入れるつもりもない。
ただ直後、ドクターが告げた言葉にクローネは聞かなければ良かったと後悔する。
「吾輩の友人に贈るのだ。空に行くためにな」
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