1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹10
心臓が一瞬止まったとクローネは錯覚していた。
空。恋焦がれ未だ届かぬ高み。
手付かずの蒼穹へ、まだ夢であるそれを先に口にする者がいた。
思わず手に力が入る。胸中に溜まった千度のガスが今にも爆発を起こしたがっていた。
揺れているのは視界か、おぼつかない足か。巨大な渦の中心で翻弄されながら怯えた声が出る。
「空、ね。本当に行けるのかしら?」
無理だ。無理だと言って欲しい。
その願いは虚しく、ドクターは肋骨の浮き出ていそうな胸をはる。
「行ける。その石があればであるが」
ドクターが指を指す。
クローネはふざけるなと怒鳴り散らしてしまいたい気持ちを飲み込む。そんなに簡単に行くはずがない。そうでなければいけないのだ。
暴風吹きすさぶ外界は常に氷点下を下回る。礫のように大きな雪が踊り、地層のごとく折り重なった分厚い雲は陽の光を遮る。昔の人はそれを白銀と称したが今の人は死灰と言うだろう。
その言葉通り、生命体で外界暮らししているものは水棲生物を除いていないとされている。極限の環境下で空を目指すことは容易くない。圧倒的な暴力で襲いかかる雪と風に負けないボディと推進力、息も凍る中で滑らかさを失わないオイルに雲の重さを突き破る設計。何より爆発的な速度を維持できるだけの燃料が必要だった。
クローネが普段使っている可燃ガスや蒸気などでは話にならない。中層では手に入らない最先端の素材と技術、知識が必要だった。
それをよりにもよって上層の人間が可能にしたという。笑いを通り越してもはや侮辱だ。物、金、時間。全て劣るものになじられる感覚が一周まわって気持ちを落ち着かせる。
クローネはアグニの花をそこら辺に転がる小石かのように投げる。緩い放物線を描いたそれはドクターの手の中に収まり、貧しい灯りの下で鈍く輝いていた。
「証明しなさいよ、私の目の前で」
無機質な感情を乗せた言葉を投げかける。
ただのホラ吹きか。それとも夢を現実にしてしまった大馬鹿者か。見定める目付きはひどく濁っていた。
いざゆかん、という訳にはいかなかった。
クローネはまだ仕事中だからだ。休憩なら何も言われはしないが勝手に仕事を切り上げることなど出来ない。ましてやアグの紹介した仕事だ、今後の信用にも深く関わる。
スコッパーを運転してエレベーターの所まで戻ると、レンが変わらずそこにいた。
少しだけ彫を深くした顔に、クローネは頭を下げる。
「すみませんでした」
無様な言い訳などしない。
地面に降り立ち、レンの前に立つ。自分の膝を舐めるほど腰を曲げて、相手の言葉を待っていた。
怒っているだろうか、怒っているだろう。
時間にすればたかだか十分ちょっとだ。仕事に大きな穴を開けたわけでもない。
それでも勝手が許されるほど甘い対応は期待できない。レンにも立場があって、周りにも影響するからだ。
はぁ、とため息が耳を打つ。少しだけ見えるレンの足先から感情を読み取ろうとしていると、突然目の前に火花が散る。
それが固い拳骨によるものだと気付いたのは、目に湯気が出そうなほど熱い涙をいっぱいに溜めてからだった。
「とりあえず、それで許してやる。今度からは事前に話を通せ」
頭を押さえてうずくまるクローネに叱咤が降り注ぐ。呻き声を上げながらも何とか返事をすると作業に戻るよう指示を受ける。
……ありがとう。
クローネはレンの姿を見てそう心を震わせる。
アグの顔に泥を塗ることだって出来た。それを殴るだけで全て不問にすると、レンは言外に言っていた。
罰としては甘いと思われても仕方がない。たとえそれがコブができるような振り下ろしだったとしてもだ。
ただそれに異を唱える人物がいた。
「ちょっとそれは困るであるな」
ドクターだ。彼はレンに向かい腕を使ってバツを作る。
……なんでおとなしくしてられないかなぁ、もう。
話はまとまっていた。それを蒸し返すような真似は好まれない。
特にレンよりも立場が上の人なら別だがドクターは上層の人間だ。仕事の邪魔になるようなことをすれば何をされても文句は言えない。
案の定、レンは眉間にしわを作っていた。そして内臓を吐き出すような深いため息をつくと、
「わかりました。連れてってください」
「ちょ、なんでよ!?」
レンの口から飛び出した予想外の言葉に思わず声がでる。
明らかな特別対応だった。そんなことが許されるはずがないと周囲を見渡すが、皆視線を逸らすばかりで話にならない。
まるで腫物扱いだ。関わりたくないのか同じく中層から来た人たちも距離を置いて、身内同士で顔を近づけ何か話している。
……何者なの?
疑いの目をドクターに向けるが彼はレンを見つめたままだ。そのレンはクローネを手招きすると、
「ただちょっとこいつと話をさせてからにしてもらっていいですか?」
「それくらい構わないのである」
媚びへつらうレンは、クローネの肩を抱く。
灼銅色の瞳は身の内を燃やし尽くすように覗き込む。思わずたじろぐが、しっかりと固定された身体はそれを許さなかった。
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