1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹8
クローネの声を聞いた男性は着物を翻して言う。
「ノンノン。
……なるほど。
初対面の相手に対して異様に高いテンションで接してくる相手に、クローネは無視を決めた。
積み下ろしも残り少しだ。ドクターと名乗る男が用があるのはレンのはずなのでそれまで口を噤む事を選ぶ。
「……無視か。悲しいであるな」
独特の口調で話すドクターは両手を天に向けて首を振る。さも悲しげな表情からは真剣さが伺えない。
クローネは一瞥すると目をそらす。関わってはいけない人種だと、脳みそが警告を鳴らしているからだ。
意識しないように、意識しないように……
無心になって虚空を見つめていたクローネは、突然身を震わせる。滝のように滴っていた汗が冷えたのかと思い身を寄せると、生温い空気を首筋に感じて飛び上がる。
「にゃぁっ!?」
「ド、ドクター!? 何してんだ?」
すぐさま振り向いたクローネの眼前は肌色で染められていた。
顔が近い。それこそだらしなく開いた襟から覗く首にくちづけをする程に。
っ!?
変態っ! と、叫ぶよりも早くに手が出る。肩を大きく回した拳は円を描いて手の甲から何かにぶつかる。
「ぬおっ!?」
骨だ。虫を潰したような無様な悲鳴を耳に残し、クローネは振り返る。
変態が頬を押さえて全身で地面を掃除していた。
可哀想にとクローネは機械弓を構える。乾拭きよりも濡れていた方が掃除は早く済む。赤い塗装もいいアクセントになるだろう。
「なにこれ?」
引き金を引くかどうかの判断はレンに任せた。
般若のように口をつり上げて笑うクローネを見て、レンはか細い笑い声をあげる。
「ドクター、
照準を変える。
鈍く輝く矢先が冷たくレンの眉間を狙っていた。
それに冗談だよとレンは手を勢いよく振る。ただクローネが値踏みするように目を細めると、彼は黙ってひっそりと目を逸らしていた。
……野郎。
一発くらい当ててもばれないかなと引き金にかかる指に力が入る。
「いたた……随分と乱暴なお嬢さんだね」
苦言を呈して起き上がろうとするドクターに、クローネは再度弓を向ける。
「自業自得。不埒な真似する方が悪いのよ」
「不埒?」
ドクターは首を傾げていた。
クローネとレンを交互に見る。そして、一人納得するように頷いて、
「あぁ。子供に欲情するような趣味はないから安心したまえよ」
「じゃあなんでよ」
「臭ったからね」
クローネは躊躇いなく引き金を引いた。
ボルトは真っ直ぐに飛ぶ。風を裂いて線を書くとそれはドクターの耳元を掠めて地面に当たる。
乾いた音を立てて転がるボルトは地面にはっきりと痕を残していた。
クローネはこめかみを細かく震わせながら、
「その無駄口叩く口を溶接させられたいか、使えない鼻の代わりにどでかい穴を開けられたいか今なら選ばせてあげるわよ」
その目に戯れの色は浮かんでいない。
……失礼ね!
臭うはずがないのだ。きっと、おそらく、多分。
顔を羞恥でルビーのように紅く染めたクローネは手慣れた手つきで次のボルトを弓にセットする。キリキリとハンドルを回せば何時でも射出する準備が整っていた。
機械弓は人の頭蓋骨ですら粘土細工とでも言うように簡単に穴を開ける。明確な凶器を向けられてドクターは震える口を壊れた機械のように開閉させていた。
「ち、違う、違うぞ。確かに香ばしい汗の臭いはしたが、いや、そうではなくてアグニの花の匂いである」
マジで脳天つらぬいてやろうかと力の入る指が止まる。
聞き捨てならない事に、クローネは一瞬呆けてから目を見開いていた。
……ハッタリか?
いや違うと、首を振る。
アグニの花が手元にあるなんて普通有り得ない事だ。それをピンポイントで当ててくるなど心当たりがなければ到底不可能な事だった。
しかし、臭いで分かるはずがない。多少の土臭さはあれどアグニの花は無臭だ。
嘘か真か。クローネは燃料切れのスコッパーのように直立で立ち尽くすことしか出来ずにいた。
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