1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹5
レースから数日が経った。
クローネはほぼ完治した身体を使って、普段通りの仕事に汗を流していた。
夜になれば連日レース会場にも足を運んでいた。選手としてではなく、観客として。いまだ絶やさず燃えているかまどの火が消えてしまうのが怖かったから。
金の算段はまだできていない。それが解決したとて、前と同じ設計では意味もない。
いっそ人生一度の一か八かの大勝負でもすればとクローネの頭を枯れた考えがよぎる。ただそれもすぐに風に吹かれて手折れてしまう。それくらいの冷静さは持っていた。
考えれば考えるほど深いドツボから抜け出す手段が思いつかない。せめてもの気晴らしにと、手堅いレースに少額だけかけて小銭を拾うような毎日だった。
そんな日々が一転したのはアグの一言だった。
「おめえ、ちょっと上層に行ってみねえか?」
三の鐘が鳴り、飯場に戻ってきたクローネを呼び止めていた。
空気が変わる音がした気がした。周囲では雑音がなりを潜め、二人の会話を聞こうと野次馬が耳を高く立てていた。
「私……ですか?」
「おう」
挨拶に返事をする程度の気軽い返答に、クローネは思わず一歩下がる。
眉間に手を当て、しばらく目を閉じる。しかし再度開いた時に世界が変わっているなんてことは無い。
基本的に上層に行くということは街から追い出されるほどのことを仕出かしたケースが殆どだ。身に覚えのない事に理不尽な提案は突っぱねるしかなかった。
「なんでですか!?」
「なんでって、仕事だよ仕事」
問答にむしろアグの方が不機嫌さを表情に滲ませていた。
……紛らわしいわ。
突然上層になんて言われれば誰だって邪推する。現に周囲の作業員も凍ったように口を噤んでいた。今は気が抜けたのかいつものように耳障りな喧騒を奏でている。
人の不幸は蜜の味、という訳では無いが普段の生活ではとことん刺激が少なく、誰もが話題に飢えていた。四季どころか昼夜もなく、見える景色は岩肌と鋼管だけ。仕方ないと言えば仕方がなく、クローネも心の隅では娯楽を渇望しているが、いざ自分が槍玉にあげられると風邪をひいたように頭に血が上る。
クローネは視線を一周させる。今も尾を引いて話題にし、小さく嘲笑する作業員を黙らせるために。
満足する反応が帰ってきたのか、クローネはふんと鼻を鳴らしてアグに向き直る。
「で、上層で何するんです?」
本音を隠して尋ねる。
上層にも街はあり、人も住んでいる。しかしただでさえ不足に喘ぐ中層よりもさらに物資が少なく、そして寒い。好き好んで行きたい場所ではなかった。
「スコッパー乗りが足らねえんだとよ。お前、運転出来んだろ?」
「……まじですか?」
話を聞いて、クローネは汚物に足を突っ込んだような渋い顔をする。
スコッパー。正式にはランドスコッパーと呼ばれるものは乗り物である。足回りは
大昔にあったリーチフォークと呼ばれるものを必要なものまで削ぎ落とした欠陥品だ。履帯のせいで前後にしか動くことが出来ないため、回転盤が必要で動きも腰の悪い老人ほどの速度でしか進まない。身を守るものもないため、一つ操作を間違えれば上から降ってくる荷物に下敷きになることも少なくない。
その分、積載量はトンを超える。親管のように人の力ではどうにもならないものを運ぶには、スコッパーを使うしかなかった。
ただし、誰でも動かせるかと言えばそんな簡単な代物ではない。操作はレバーが二つしかないが、油圧の調整や暖気運転など、手のかかる赤子のように繊細に扱わなければいけなかった。
クローネもたまたま人に教わる機会があったから乗れるが、中層でも問題なく運転出来る人は少ない。
行きたいか行きたくないかで言えば行きたくない。クローネの首は錆び付いたように頷くことを拒否していた。
「私じゃないと駄目なんですか?」
少ないとはいえ運転出来る人がいない訳ではない。配管工以外でも運転出来る人もいた。
またクローネにはまだ午後も作業がある。途中で投げ出すわけにもいかないと言い訳を用意していると、アグは顔に含みのある笑みを浮かべて手を突き出す。
三。人差し指から薬指までが天を向いていた。
……まさか。
クローネはその行為に息を飲む。
「日当三倍。これなら文句ねえよな?」
「やりますっ!」
即答だった。飢えた害獣のように。
思わぬ臨時収入に皮算用で緩むクローネの頬を見て、アグはなかば呆れたように眉を寄せていた。
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