1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹1

「いっだぁーいっ!」


 救護室に運ばれたクローネは天地を揺るがすような大声で騒いでいた。

 彼女を囲むように立つ二人の男性がいた。

 アグとグスクだ。心配そうに眉を八の字に曲げるグスクとは対象的にアグの表情は明るい。

 例に漏れずレースを見に来ていたのだ。既に全レースが終わり、帰る人混みを掻き分けて顔を出した二人にクローネは石の寝台に背を向けて寝転びながら顔を背けていた。

 そこへ容赦なく背中を叩かれ、悲鳴をあげていた。


「良かったじゃねえか。骨も折れてねぇし麻痺もないんだろ。ゴム玉みたいに元気に跳ねてた割には大丈夫そうだな」


「大丈夫じゃないですって。全身ボロボロでミイラ男みたいになってるんですよ!」


 うつ伏せで悶えながらクローネは文句を口にする。

 クローネを見た医師曰く、内腿と脇以外は擦過傷がない所を探す方が難しいとの事だった。打撲箇所も多いが、天然のおろし金の上を転がった割には比較的軽傷だとも言われていた。

 特に頭に損傷がなかったことが大きかった。回転による脳震盪は短い時間だったので影響は既になく、外傷に目を瞑れば健康体と言っても過言ではなかった。

 口伝くちづてで語られる人外の名前を出すと、アグは吹き出して笑う。


「ミイラ男か、似合ってるじゃねえか」


「似合ってません。失礼ですよ」


 こんな可愛い子を捕まえて、デリカシーがないなとクローネはふいごのように頬を膨らませる。

 山の男なんてそんなものかとも思っていた。ガサツで図体ばかりが大きくなった、子供と対して変わらないと近所の婦人会ではよく噂されている。まさにその通りだとクローネは呆れていた。

 下層に行けばそれも少しは違うらしい。実際に行った人がいないからただの噂話だが、煌びやかな衣装に身を包んだ女性は煤で汚れるようなことはなく、男性はすべからく紳士であるべしと言い聞かされているという。

 嘘か誠かは置いておくとして、理想像に憧れる中層の女性は多い。ほぼ交流がないこともそんな妄想を助長させていた。


「ま、大事無いならいい。二、三日休んだら仕事に戻ってこいよ」


 アグはそう言い残して、一人ドアの向こう側へと行ってしまった。

 部屋に残された二人は視線を交わさずに無言でいた。

 クローネは明日の朝まで救護室で安静にと言われている。寝返りをうつだけでヤスリで擦られたように痛む身体を起こすことは出来ず、それに甘えるしか無かった。

 救護室は岩をくり抜いて出来た横穴に、四角い石を並べただけの作りをしている。そのため仕切りもないが今日ここで世話になるほどの怪我を負ったのはクローネ一人だった。


「ごめんね」


 無言を貫き通すグスクに、クローネは言う。

 家に一人残された子供のような顔をしていた。寂しそうな表情にクローネは居たたまれず話しかける。


「勝てなかったよ。約束したのにね」


 ははとかすれた笑みを浮かべるクローネにグスクは肩を震わせていた。


「違うだろ」


 翠の瞳が揺れていた。

 ……あぁ。

 手を握りしめる彼にクローネは内心で強く憤っていた。

 優しさが、今は辛い。


「グスク。止めてよ」


「止めて? なんでだよ! いちばん頑張ってたのにどうしてそんなにへらへら笑ってられるんだよ!」


 男の怒りが心を溶かそうとする。

 女は鉄だ。クローネはそう教えられて育っていた。

 表面はなめらかに磨かれていても、芯は雪よりも冷たく、氷よりも硬い。折れず曲がらず溶かされず。熱い男に簡単に靡くことなく一本の杭であれと。

 子供の頃はよく分からなかったことが、今になって理解出来る。

 だから、


「悔しさも苦しさも、全部私のものだから。あんたなんかに分けてあげないんだよ」


 女が弱さを見せれば男は寄りかかってくる。一度曲がった鉄棒は見かけ上真っ直ぐにしてもそこから腐っていく。

 だからまだクローネは胸に溜まる熱を吐き出す訳にはいかなかった。


「……訳わかんねえよ」


 吐き捨てるようにグスクは呟く。

 子供ねと、笑うことは出来ない。ただの意固地だと言われれば今なら頷いてしまいそうだったから。


「帰りなよ。明日も早いんでしょ?」


 これ以上顔をあわせたくなくて、クローネは突き放すように言葉を向ける。

 投げやりに手を振ると、グスクはしばらく猜疑的に目を細めたあと、またなと言葉を置いて出ていった。

 一人。独り。

 クローネは近くに置いてあるランタンの灯りを消した。

 指先も朧気になるほどの暗さの中で、小さな嗚咽が鳴り響いていた。

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