1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹2

 クローネが目を覚ましたのは一の鐘が鳴る前のことだった。

 服装は事故の時のまま。秘すべき場所がどうにか隠れているだけでもはやツナギというよりはぼろきれを纏っているようだ。

 中層五階は水に薄い氷の膜が張る程に寒い。昨夜の熱気はなりを潜め、次の夜に向けて眠っていた。


「へっくち!」


 そんな薄着で寝ていれば風邪をひくのも時間の問題だ。クローネは大きくくしゃみをした後、灯りを付ける。

 赤く腫れた目が照らされる。鼻から垂れる水を毛羽立った硬いツナギで拭うと、クローネは未だ痛む節々に鞭を打って立ち上がる。

 すべきことがあった。本来なら昨日のうちにしたかったことが。


 救護室から出たクローネは誰もいない広場へと足を向ける。冷気だけでなく殆ど物音すらしないそこは、何もかもを吸い込みたがる空虚の怪物がいるようだった。

 唯一音がするところがあるならばハンガーしかない。レースに必要な蒸気以外、供給がないからだ。パイプは常に温めて置く必要があるためハンガーは少しだけ暖かく、吐き出されたスチームが死に体のように微かに呼吸をしているようだった。

 僅かな灯りを持ってクローネは暗闇を進む。石の壁は小さな足音でも痛いほど反響させる。思わず悪いことをしているような気分になり、歩幅を狭めた。


 向かう先はそのハンガーだ。暖かさを求めて、という訳では無い。

 この時間、機体も飲み込む巨大な鉄扉は閉じている。人力では到底開くことがかなわないため、隣の小さな通用口から中へと入る。

 暗く、まとわりつくような湿気の中をクローネは心許ない灯りを頼りに進む。

 目的地はすぐそこだった。


「っ……」


 昨日と変わらず蒼がそこにはあった。

 しかし、その姿は既に息絶えているようでもあった。全身に亀裂が入り、中の骨が覗いている。いちばん酷いのが左側面だ。ラムジェットは外気を圧縮するため他の比ではないほどの負荷がかかる。耐えられなかった部品が土台ごと剥がれ落ちて、未だ新しい内部をさらけ出していた。

 揺れる火に照らされて輝きを放つ機体を注意深く点検をするクローネは、二周程見て回った後に、


「……ごめんね」


 薄造りのガラスのように震える声で呟く。

 どう見ても、取り返しがつかない。クローネはそれを理解してしまった。

 クラックの原因は溶接にはなかった。丁寧に細かい波を描く跡は、亀裂などどこにも確認できなかったからだ。

 むしろ頭から排気口の方まで伸びるような亀裂が多い。これは機体から生まれる細かい振動に、鉄板が耐えきれずに自壊した形跡だ。


 無論、耐久と重量は考慮されていた。これ以上鉄板は薄く出来ず、厚くすれば初速が足らずラムジェットは働かない。設計図にもそう書かれていて、クローネも対策として振動吸収性の高い緩衝材を大量に仕込んでいた。

 それでも駄目だった。

 直すにもクラックは上から鉄板を張るか取り替えるしかない。補修は重量が増すだけでなく耐久力も落ちる。かといって張り替えてもバイラル型である以上、またクラックが起こり次は命が無いかもしれない。そもそも張り替えるにしても金がない。

 失格でもファイトマネーは出るが、雀の涙程では修理どころか生活もままならない。ハンガーの場所代もあるためレースには出たいが今のままでは出ても赤字、出なくとも赤字という状況だった。


 ……ままならないわ。

 クローネは暗雲立ち込める未来を見て、悲しみを通り越して呆れてしまう。

 賢い選択はある。愛機を鉄屑に変えて何事も無かったように仕事をすればいい。


「ふふ、馬鹿言ってんじゃないっての」


 クローネは自嘲気味に笑うと頬を叩く。

 しかし気合いを入れたところで状況が好転した訳では無い。金なし猶予なしドロッパーなしの三重苦を早くに脱却する必要があった。


「……あれ?」


 ない。あるはずのものがない。

 気づかなければ些細なことと忘れてしまうほどのことに、クローネは気づいてしまった。

 ドロッパーなのだから部品が飛んでいくことなど日常のことで、五階の隔壁の上には細かいボルトやリベットなどが散乱している。レースに支障がないほどの小さなパーツなら誰も見向きもしないからだ。

 だから週に一度くらいのペースで鉄屑回収されるまで散らかったままだ。似たり寄ったりのパーツが誰の物かなどわかるはずもない。

 しかし、ある程度大きいものとなると話は別だ。クローネの機体から剥がれ落ちた左側の部品は排気管が一メートルを超え、特徴的な青をしている。てっきり機体と一緒に回収されていると思っていたが、周囲を見渡してみてもそれらしきものは転がっていなかった。

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