1章 ドロッパーレース9

 崩壊を感じたのは音ではなく横から殴られたのような揺れによるものだった。

 ドロッパーで特に神経を使うのが左右均等に作られているかどうかだった。制御の難しい機体故に、僅かな重さのブレが大きく進路を揺るがすことになる。出力の安定しないパワーセルを二つ以上並列しない理由もそこにあった。

 だから左側から耳をつんざく音を鳴らしながら後方に流れていく鉄の塊を見て、クローネは覚悟を決めた。


 加速を止めた機体は突然軽くなった片側が先行する。一度勢いづいたら止まれず、制御用のか弱い蒸気では回転の力を押し留めることは出来なかった。


「くっ……」


 一回転。景色が流れる。

 二回転。先程より速く、遠くに見える人々が線になる。

 三回転、四回転……数えるのも億劫になり、三半規管が悲鳴を上げる。

 こみあげてくるものを無理やりに呑み込む。よかった、胃袋の中身がからっぽでと、クローネは胃酸で焼けた喉を鳴らす。


 直後、ゴール地点を大きく超えて終点にある減速装置に滑車が衝突する。

 いくつも連なるバネが身をしぼませる。もはや一つの筒となっても機体は追撃の手を緩めることはなかった。

 ブチッ。

 弧を描いて滑車を中心にドロッパ―は天を目指す。その重荷だと言わんばかりにベルトが千切れ、クローネは外へと投げ出されていた。

 宙に浮く。泳いでいるような緩やかな動きで地面と水平に飛んでいた。

 半ば涅槃にいるような心地だった。意識は枯れて、目で見えているものが何かを理解することが出来ない。


「そら……」


 クローネは手を伸ばす。

 青い蒼穹が回っていた。





 誰かの悲鳴が上がる。

 息を飲む音が、会場全体を包み込んでいた。

 広場には、少女のむくろが転がっている。弾み、もう一度弾んで土煙を巻き上げながら滑り、ようやく止まった時には一本の紅のラインをそこに残していた。


「メディーック!」


 落雷のような号令と共に、ゴール付近で控えていた男たちが駆け出す。

 それよりも速く、クローネの元についたのはスクリムだった。

 遅れること一秒足らず。ゴールラインを通り過ぎた彼は減速仕切らぬドロッパーを置いて飛び出していた。

 太い腕を振り、駆け寄ったスクリムはうつ伏せに横たわるクローネを抱き抱える。ツナギは擦り切れ、至る所から柔肌が覗いている。


 特に酷いのが右腕だ。

 幸いにも殆どが裂傷、擦過傷で肉がえぐれるような傷はなかった。骨が突き出ていることもないが、代わりに鋭く尖った雲母のような小石が肩から肘にかけてうろこのように突き刺さっていた。


「しっかりしろ!」


 低いいななきにも似た声がクローネに降りかかる。口の端に泡を浮かべて眠る彼女は安らかな微笑を浮かべていた。

 浅く上下する胸に、スクリムは熱い吐息を漏らす。

 選手歴が長いということはそれだけ多くの事故と向き合ってきたということでもあった。間近で即死と判定された選手を見たこともあるスクリムにとって、クローネが危機的状況では無いことは直ぐにわかっていた。

 鉄パイプのように太く硬い太ももにクローネの頭を乗せる。気道を確保するために顎を引くと、到着した男性達が傷口に対して手早く処置を始めていた。


「ぐっ……」


「目が覚めたか」


 めり込んだ小石を除去すると、クローネがその痛みに苦悶の声を口にする。

 同時に地下水のように溢れ出る血を強く押さえて止血する。布は無いため石油から精製した透明な薄いビニルを幾重にも巻いていく。


「……ぁ、うぅ」


 言葉にならない声だ。未だ意識が混濁しているのかクローネの目の焦点はガス灯のように揺れていた。


「無理するな。大丈夫だ、死にはしない」


 スクリムは落ち着かせるように肩を軽く叩く。

 あらかた手当が終わり、救護の男性達は足早に戻っていく。これ以上彼らが出来ることは無い。状態が急変しない限りは大事無いというお墨付きでもあった。

 朝靄あさもやのように不安定だったクローネの意識にゆっくりと火がついていく。目に力が、顔にハリが出てくると共に数回大きく咳き込む。


「はぁ……はぁ……れ、レースは?」


 出涸らしの声に、スクリムは無情にも首を横に振る。

 一瞬大きく目を開いたクローネは嗚咽混じりに瞳にダイヤを散りばめると、下唇を噛みちぎるほど強く歯を当てる。鋭い痛みの残るはずの手で気持ち任せに拳を作ると、殴るように涙を拭う。


「……そっか、仕方ないよね」


「生きているんだ。次がある」


 スクリムは錆びた歯車を思い浮かばせるぎこちない笑みを浮かべる。

 次がある。果たしてそれは本当なのか。クローネは頭に浮かんだそろばんを今は砕いて微笑む。


 クローネ・ツインバード。初戦、失格。

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