1章 ドロッパーレース5

 ドロッパーの上部にはワイヤーがついていた。天井まで伸びるそれは終端にC環を付けている。

 同じように天井には蜘蛛の巣のように張り巡らされたワイヤーがあり、ドロッパーを吊るし下げている。まるで果実のような光景にも意味があった。

 底の丸いドロッパーを積む台車は、当然の如く受け皿が湾曲を描いている。ただそれでも人が軽くぶつかっただけで簡単に転がる機体は地面に着けば凹み損傷する。小さく軽いとはいえ鉄の塊だ、運悪く引き潰されれば中身の出された芋虫のようにペラペラになってしまう。

 そうならないための安全装置としてワイヤーを常に掛けることが義務付けられていた。


 C環を操りながらクローネは先導する男性の後を追う。レースの運営をしている関係者だ。名前は知らない。


「こちらでお待ちください」


 男性は一礼して次の持ち場へとそそくさと去っていく。

 レースは隔壁の上百メートルを超えたところからスタートする。低すぎても高すぎても観客から見えにくい場所が出来てしまうためだ。そのためのエレベーターが今クローネのいるところだった。

 仕事着の後ろ姿を軽く眺めていると、正面から向かってきたドロッパーに視界を塞がれていた。

 鮮やかな緋銅色が目に眩しい。他より一回り大きい機体は異様な存在感を放っている。

 

「よお」


 言葉数少ない問いかけにクローネは手を振って答える。

 牽引してきたのは機体に相応しく大柄な男だった。痩せてはいるものの筋肉で満ちた身体はツナギの上からでもしっかりと凹凸を表現していた。

 スクリム ハンマーヘッド。流行りのスキンヘッドに岩肌のような仏頂面、ツルハシみたいに尖った目など、威圧感に圧倒される。

 彼は最後から二番目にくじを引いた人物だった。当然ながら有名で、ついたあだ名が本当の二番手。

 セナが王者になってからレースを始めた彼にとって常に先を行くセナを超えたことは一度もない。直接対決の成績は八勝四十四敗三分け。大きく負け越していた。


 その腕に大きな差はない。機体の加速、最高速共にカタログスペックは互角。唯一にいて最大の差がその体格、つまりは体重だった。

 それでも八勝することは目を見張る偉業であった。ランダム故にいつも好カードのレースが組まれるということは無いが、二人が同時に出走するレースの盛り上がりは他と一線を画す。


 スクリムは礼儀として一言声を掛けたと言わんばかりに口を一文字に結んでクローネの隣に立つ。ガチャガチャとC環が音を立てて、二人の間に巨体を座らせていた。

 ……やりにくい。

 こういう時どうすればいいかをクローネは知らなかった。

 レースだから、対戦相手だから。勝てば賞金が出て、負けても少しは金になる。真剣勝負に馴れ合いは必要ないと斬ってしまえばその通りだし、それだけの関係というのも味気ない。

 クローネが紡ぎ出す言葉に悩んでいると、


「……緊張、しているのか?」


 先に問われ、中途半端に浮かんでいた言葉たちは霧散してしまう。

 今スクリムがどんな顔をしているのかも分からない。磨きのかかった美しい曲面に映るのは自分の顔だけだ。

 年齢も歴も成績も上の人から声を掛けられている事実に、クローネは早く答えなければと思い、


「ええ、まぁ」


 焦り、出てきたのは月並みな返答だった。

 ……馬鹿じゃないの。

 死んだ言葉を口にしたことに内心で腹が立つ。自分から会話を絶ったとも捉えかねないからだ。

 直ぐに言葉を続けようとあの、と口が滑る。それを待たずして先にスクリムの方から話しかけられていた。


「十秒だ。アクセルを踏んで息を止めていれば後は機体が勝手に進む。あまり気負うな」


 それは助言か、見下しているのか。

 言葉としてはごく当たり前の事を言っているに過ぎなかった。高々十秒ちょっと、機体の性能が物を言い、選手に出来ることは数少ない。しかしその数少ない中で勝負しなければ勝てる試合も勝てなくなる。

 一番解っているはずのスクリムからその言葉が出る意味が分からず、クローネは眉を寄せて考えていた。


 そして、エレベーターがゆっくりと上昇を始める。

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