第2話



「おい、鳥。しゃべれ」


 出会ってから三か月が過ぎたが、その間アリスは一言も話していない。

 爽やかな夏は過ぎ、木々の葉が色づく秋が来ていた。

 アリスが話さないことについてビクトリアはなにも言ってこない。だからアリスも、無理に言葉を発する必要もないのだろうと思っている。


 ビクトリアはビクトリアで、あとはアリスに任せたといった感じで側室の集まりでの美容情報交換や、寄付活動などに忙しい。

 アリスに対してビクトリアは、自分の仕事も含めた裏話をかなりしてきた。

 おかげで、アリスも誰に目を光らせればいいのかわかり、仕事がしやすい。


「あなた、図太くていい子だわ」

 文鳥になる直前、ビクトリアはアリスをそう評した。


 その図太さで、アリスは黙っている。

 普通の文鳥を装い、レイモンドとの接し方についてゆっくりと考えていた。

 レイモンドにしても、しゃべらないアリスに対して乱暴な口調で迫ってはくるものの、だからといって羽をむしったり手で握りつぶそうとしたりといった暴力はしてこない。

 そもそも、文鳥が話すはずないと思っているようにもうかがえるし、案外優しいのではないかとも思う。


 しかし、いきなり円周率を聞いてきたときは驚いた。

 円周率なんて言葉を、アリスは初めて聞いた。

「知らないなら教えてやる。円周率とは、円の――――」

 アリスに向かいレイモンドはそう説明を始めたが、ごめんなさい、よくわかりませんでしたの世界だった。


 田舎育ちのアリスは、食べられる草や川や湖での泳ぎ方には明るくても、勉強は苦手だった。

 アリスには円周率がわからないけれど、レイモンドがあれこれ興味を持ち勉強しているといったことはわかった。


 レイモンドはほぼ毎日図書館へ行く。

 後宮で育つ子どもたちは、王立学園へ入る前までは学校へは通わず家庭教師をつけるのが一般的だ。

 家庭教師から、王族としての心得や教養、そして同年代の子どもたちが学ぶ教科を教わり、王立学園へと進学するのだ。

 ほかの子たちとの学力に差がないか確かめるため、学校で行われる定期試験だけは一緒に受ける。

 勉強を怠けていると、ばれてしまうのだ。


 レイモンドも週末になると教師は来るのだが、平日は図書館や博物館で開かれる大人向けの勉強会に参加していた。

 行き帰りは騎士が付いた。

 騎士は勉強会中は部屋の外で待っていたが、アリスはそういうわけにはいかない。仕方なく一緒に話を聞くことになるわけだけれど。


「文鳥、眠いならぼくのポケットに入っていろ」

 賢いレイモンドは、自分の文鳥の眠さにも敏感で。

 そんなわけで、勉強が始まるとアリスはレイモンドのシャツのポケットに入ることが定番となった。


 しかし、文鳥が肩からポケットに移動したからといって、彼が文鳥といることには変わりなく。

 むしろ、レイモンド王子は文鳥には非常に親切だと評判にもなり。

 「文鳥王子」の名は図書館や博物館でともに学ぶ大人たちの口により、王宮だけでなく徐々に街中へも広まっていった。

 ただしそれは、ビクトリアの思惑とは違い、どちらかというと好意的で親しみを込めたものであったのだ。



 これを聞きつけ、面白くないと感じる人物がいた。


「やい、文鳥王子!」


 九番目の側室の息子のローガンだ。

 後宮に入ってすぐの木の下で、図書館帰りのレイモンドを待ち伏せしていたようだ。

 本を三冊抱えたレイモンドと、口の周りにチョコレートソースをつけたローガンが、じっとにらみ合う。

 しかし、次の瞬間。

 レイモンドは、ローガンなどまるでいないかのように、そのコロコロとした体の横を通り過ぎた。


「おいっ、待ちやがれ!」

 レイモンドもそうだが、後宮の子どもたちの言葉遣いはあまりいいとはいえない。

 ただ、レイモンドの場合、アリスに話しかけるときだけであるが。

「待てって、言ってんだろう!」

 どこのゴロツキかと思うようなセリフで、ローガンがレイモンドの背中を掴む。

 レイモンドの体が斜めになってしまったので、落ちそうになったアリスは思わず飛んだ。

 そのアリスの目に、ローガンが太い腕でレイモンドから本を次々と奪い、それを近くの池へと捨てるのが目に入った。


 ローガンが太い体を揺らし笑う横を、レイモンドがすり抜け、池へと入っていく。


 びっくりしたのはアリスだけではない。

 ローガンもレイモンドが本のために池にまで入るとは思わなかったのか「ぼくのせいじゃないぞ!」と捨てセリフを吐き逃げていった。


 じゃぶじゃぶと、レイモンドが池に落ちた本を二冊拾った。そして、三冊目に手を伸ばそうとしたとき。

 ずるりと足が滑ったのか、レイモンドの姿が消える。

 しかし、すぐに浮いてきた。

 レイモンドの様子から、足が滑ったのではなく、池の底が深いのだとアリスが思った。


「本を離してください!」

「は?! えっ!」

 ばたつくレイモンドのそばまでパタパタと飛びながらアリスが叫ぶ。

「本は買えます! でも、レイモンド様の命は買えません!」

「!」


 レイモンドは、本から手を離す。

 しかし、彼はまだばたついている。


「レイモンド様! 人間は浮きます!」

「はっ?」

「信じてください。仰向けになるんです。いいですか、両手で水をかいて水面に浮くイメージで仰向けになるんです。そうしたら顔と鼻は少しですが水面に出ます」


 レイモンドはアリスの言うとおり、手で水をかくと、顔だけ出し、ようやくといった感じで息をした。


「助けを呼んできます。すぐに戻ります。だから」

 アリスの小さな黒い目とレイモンドの青い目が合う。

「待ってて!」


 そのすぐあと、レイモンドは救出された。

 しかし、季節が悪かった。

 くしゃみがとまらないレイモンドは、その晩、熱も出した。


「本はどうなりました、母上」

「心配しなくてよろしい。弁償させる手配は済ませました」

「ありがとうございます」

 レイモンドはローガンについて一言も言わなかったが、そこはアリスがしっかりと報告した。ローガンは本の弁償だけでなく、図書館への入館も半年間禁止となった。

 ビクトリアが出ていくと、部屋にはアリスとレイモンドだけになった。


「文鳥、いるか?」

 レイモンドに呼ばれ、アリスはパタパタと彼の枕元へと行く。

「助けてくれてありがとう」

「……お守りできず、申し訳ございません」

 はっ、とレイモンドが笑う。

「おまえがいなかったら、ぼくは確実におぼれていた」

「レイモンド様は泳げないのですね」

「……そうだ」

「練習した方がいいと思います」

「そうだな」

 アリスは白くて小さな首を傾げる。

「走ることはできますか?」

「あたりまえだ」

「何キロくらい?」

「……キロ?」

「なにかあったとき、しっかりと逃げるためには足腰を鍛える必要があります」

「おまえは、話し出したら途端におしゃべりだな」

 レイモンドが薄い瞼を閉じる。

「わかった。元気になったら、勉強だけでなく体も鍛える」

「それがよろしいかと思います」

 ふっとレイモンドが笑う。

「褒美はなにがいい?」

「……いりません」

「なにか言え」

 アリスの頭に、弟と食べていた懐かしい菓子が浮かぶ。


「でしたら、ジンジャービスケットを」

「そんなものでいいのか」

「好物なのです」

 アリスの答えに満足したのか、すっとレイモンドが黙る。

 眠ったと思い、アリスがベッドから飛び立とうとしたとき。


「そばにいて、文鳥」


 レイモンドのか細い声が聞こえた。

「かしこまりました、レイモンド様」


 思えば彼はまだ六歳なのだ。

 成り立つ会話から、同じくらいの年だと思っていたがうんと年下なのだ。

 そんなことを考えながら、アリスの目もだんだんと閉じてきて。

 ついにはぐっすり眠ってしまった。


 

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