羊飼いと爆発

桜枝 巧

羊飼いと爆発

――羊が一匹。

――羊が二匹。

――羊が三匹。


 眠れない夜に羊を数える、というのは、元々英語圏における言い伝えだという説がある。

 たしかに羊「sheep」は眠り「Sleep」と似ている。また発音する時、どちらの単語においても、静かにせざるを得ないような、密やかな息が歯の間から生まれる。

 それはまるで、「もうお眠りなさい。これから夜が始まりますよ」と誰かから囁かれる、ささやかな儀式のようだった。

 本来は東方イスラム圏のおまじないが英語圏にやってきたものだとか何だとか、他にも色々説はある。

 ただ何にせよ、「眠れなければ羊を数えてみなさい」という文句は、親から子へ、またその子どもへと長年受け継がれてきたことには違いない。


 しかし、人々の脳内には本当に羊が住んでいる、ということを知っているのは、ごくわずかだろう。


 この小さなおまじないが羊を作り出したのか、元々そこに居たのかは定かでない。

 気が付かない内に彼らは住まいを構え、柵を作り、眠れない子どもや青年たちのためにそれを飛び越え始めた。


――羊が一匹。

――羊が二匹。

――羊が三匹。


 暗闇で もぞもぞと動く少女のもとに、羊たちはひょっこりと顔をのぞかせる。

 両親は既に寝ていて、規則正しい寝息を立てていた。

 それがまた、彼女を焦らせる原因のひとつにもなっていた。

 窓は淡いラベンダー色のカーテンで覆われていて、外の景色は見えない。

 隙間からは、僅かな光が漏れ出ていた。それが近くの街灯によるものなのか、それとも月明かりなのかは、彼女には分からなかった。

 少女は母親の言葉を思い出す。

 夜遅くまでゲームをしていると眠れなくなるわよ、とか、もうすぐ受験生なんだから、とか。大人になりなさい、なんて言葉を思い出して、べっと舌を出す。

 最後に思い出すのはもちろん、あのおまじないだ。

 彼女は目を閉じる。

 すると想像の中で、どこまでも続く野原がたちあらわれた。

 そこにはふかふかの羊たちと、ひとつの柵がある。

 頭上にはいつか小さな頃絵本で読んだような、満天の星空が浮かんでいる。足元はいつの間にか、柔らかな草に包まれていた。

 少女自身は、動きやすそうなジーンズに温かいセーターを着ている。

 首元には、少し背伸びした金のチェーンのネックレスがかかっていた。

 クラスメイトの子たちのような可愛い、とは違うけれど、スタイリッシュで彼女のお気に入りのスタイルだった。

 柵は飛び越えるのにこれ以上ないくらいぴったりの高さだ。新しすぎず、古すぎず、程よく使い慣らされていた。それは、少女を夢の国へ誘うのにおあつらえ向きだった。

 羊たちは出番を待っている。世界のずっと端っこの方にいるものだから、少女からはぼんやりとしか見えない。毛にはひとつも汚れがなくて、ただの白いかたまりのようにも見えた。

 少女は恐る恐る小さな声で数え出す。

 羊が一匹、ゆっくりと駆けてくる。

 彼女に合わせて柵を飛び越え始める。

 少女の頬が緩む。

 徐々に数は増えていく。


 羊たちは、自分たちをまた思い出してくれたことが嬉しくて、脳内の端っこでぴょんぴょんはね回った。

「こら! そんなに暴れちゃあ、だめだろう!」

 彼らをたしなめたのは、ひとりの少年だった。羊たちよりずっと世界の隅にいて、少女からは見えないほどだった。

 少女と同じくらいの背丈で、白いワイシャツを着ている。下は黒いズボンで、きっちりネクタイをしめていた。彼女がよくやっているゲームのキャラクターに少し似ているかもしれない。

 羊たちは、突然姿を見せた彼に戸惑う。

 メェ、と小さく鳴く者もいた。

「なんでって、そりゃあ、羊がいるなら羊飼いもいるだろう」

 少年は毅然とした態度で応えた。まるで、今までずっとそうやってきた、と言わんばかりだった。

「それに、今夜は長くなりそうだ。いいかい、彼女の眠りのために、僕らはひとつのチームにならなくちゃいけない。そのためには、だれかリーダーが必要だ。そうだろう?」

 彼はそう言って、仁王立ちで腕を組んだ。それが少女の父親がよく見せる仕草だということを、羊たちはよく知っていた。

 羊たちはしばらく言葉ともしれない鳴き声を上げたが、やがて自分の仕事に戻った。少女の数える声に間に合うように、想像力の端っこから飛び出していく。

 羊飼いの少年は、その茶髪を揺らしながら満足そうに頷いた。

 そして、よく働いた。

 毛並みの乱れた三十四番目の羊にはブラッシングをしてやり、五十九番目の羊には歯を磨いてやった。

 今自分が立っている場所が、そして自分自身が少女の想像に過ぎないことを、彼はよく理解していた。

 彼女が眠りに落ちることが、何よりの報酬だと考えていた。

 だから少しでも少女の想像力のためになるように、優しく羊たちを送り出した。

「ほうら、行っておいで。お前のひとっとびが、あの子の優しい夜につながるんだから」

 羊は温かく、柔らかかった。

 毛をブラシでけずってやると、気持ちよさそうに体を震わせた。

 彼女の記憶から作られた少年は、自身の感覚が少女の過去と結びついていることを知っている。

 少女は本物の羊に触れたことが無かった。だから、彼が感じている柔らかさは、あくまで少女が触れた代用品――羊のぬいぐるみのそれでしか無かった。

 少年は構わなかった。しきりに身体を押し付けてくる羊たちの温もりに、どこか気恥かしささえ感じていた。

 時折鳴く者もいて、少年は眠りを妨げてしまうのではないかと気が気でなかった。

 その度に薄い唇に人差し指の先をそっと当てた。

 少女が不快に思っている様子でないことが、何より彼を安堵させた。

 少年は、順番を待っている羊たちを自由にさせていた。どの羊も、結局は少女の想像の中の産物だ。草を食んだり、他の羊を追いかけてみたりと穏やかに過ごしていた。


――異変は、いつだって急に訪れる。

 最初は、百二十五匹目の羊が柵に左脚を引っ掛けたことだった。

 何とか反対側へ渡ったものの、その羊は信じられない、という目で自身の脚を見ていた。

「――っ、あの、馬鹿!」

 少年は思わず小声で呟いた。

 馬鹿なのは羊ではなく、少女だった。

 目を閉じるだけで星空と野原を生み出せる彼女だ。想像力が人一倍豊かなことは、少年にも羊たちにも十分に分かっていた。

 だからこそ、少年は少しだけ不安だった。

「途中で飽きて、変化を求めるんじゃないか、とは、思っていたけれど……!」

 そこからは、アリスが穴に転げ落ちていくような有様だった。

 百三十二番目の羊は、飛び上がるタイミングを一秒ほど間違え、両足を引っ掛け大きく一回転して着地した。

 百三十五番目の羊は、何を思ったか横っ飛びで柵を越えた。

 百四十五番目の羊はとうとう柵を越えられず、その下を潜り抜けた。

 どの羊も「なぜこんなことになったのか分からない」と言いたげに柵を眺めた。

 そして少年と目が合い、みな揃って俯いた。

 少女も、この状況を止められない様子だった。

 大きな目を何度もしばたかせ、困ったように右手を頬に当てた。

 唇からいつしか、数字は聞こえなくなった。

 それでも羊は飛び出さざるを得なかった。

 少年が必死にしがみついたが無駄だった。

 羊たちの主人は羊飼いではなく、途方に暮れる少女だった。

 少女の脳はまだ、羊を数え続けているのだった。

 どこかで爆発音が響く。

 はっと少年が周囲を見渡せば、そこは草原ではなかった。

 ビルが立ち並び、かと思えばメルヘンチックな城らしきものが雲の上に浮いている。

 羊の一部は毛が刈られ、一部はどうやってか、革製のジャケットを身にまとっていた。

 少女は手にアサルトライフルを持っている。引き金は軽く、放てば琥珀糖の弾が打ち出された。ぱん、という気の抜けた音と共に、柵の端が欠ける。

 少女の表情が怯えに変わる。

 星が流れ星となって落ち始める。大きな衝突音と土煙を上げながら、星は砂糖菓子になる。

 もうめちゃくちゃだった。

 少年は思わず叫んだ。

「なんでだよ、眠りたいんだろ、眠れないんだろ! なんで普通に数えないんだよ!」


 そして、向こうからは見えないはずの少女と――目が、合った。

 少女の唇が動く。


「あぁ、わたし、また」


 その瞬間、少年は闇に放り出された。


 あ、とも言えなかった。

 星空も、地面も、何もかも存在しなかった。

 ――少女が現実世界で無理に起き上がったに違いなかった。

 急速に、自分が意識の片隅、そのさらに隅へと追いやられるのが分かった。

 少女の中で、少年の存在が小さくなっていく。いずれは虫のように潰されることは明白だった。

 そうなれば、また彼女が羊を数えようと思うまで、彼は出てくることができない。

 少年の手元に、最早羊は一匹もいなかった。柔らかな毛に包まれることも、騒がしい声に眉を顰めることも出来やしない。

 羊を集めなくては、と少年は思った。彼だけの羊ではないのだ。集めて箱に入れて管理して正確に一片の狂いもなくハードルを越えさせなければならないと――そう思った。

 小さく喉がなる。

 ぷつん、と何かが切れた音がした。


 次に少年が目覚めた時、そこにあるのは柵だけだった。

 地面はなかった。

 空もなかった。

 ただぽつねんと、何の取り柄もない柵だけが置いてあった。

 少女はまた世界の中心に立っていた。どこか怯えたような表情で、少年をじっと見つめている。

 彼はすぐに、彼女の服が中学校の制服であることに気がついた。プリーツスカートの裾は風になびくことなく、闇に溶け込んでいた。

「……そりゃそうだ、風なんてないんだもの。眠るのには必要ない」

 呟いてから、少年はすぐに仕事を始めた。

 周囲を新しく別の柵で囲い、勝手に動けないようにした。

 一頭ずつ少女の待つ場所へ押し出せるように順番に並べる。合図を教え、彼の指示に対し忠実に従うよう躾けた。

 羊たちは鳴くこともせず、少年の言われた通りに動いた。

「羊が」

 少女の声が聞こえる。

 どこかはっきりとせず、布を一枚通して話しているかのようだった。

 それでも、数えていることには変わらない。

 少年が合図する。

 羊は走り出す。

「いっぴき」

 羊は難なく柵を乗り越え、そして暗闇に消えた。

 柵を越えた羊がいつまでもとどまっている必要はなかった。

 羊たちはどこまでも従順で、機械的だった。

 いつかの暴走が、それこそ夢のようだった。

――羊が十匹。

――羊が十一匹。

――羊が十二匹。

 やがて少女は数えるのに疲れて、眠りにつく。

 少女の数える声が消えたとき、少年はほう、と息をついた。

「やっと、やっと終わった……」

 数えた羊の数は少ないはずなのに、異様に疲れていた。

 首を横に傾ける。筋が伸びるような、じりじりとした感覚が伝わる。

 少年には、それが最近の彼女の記憶にあった痛みだとわかる。通学鞄が重くて、肩に負担がかかっているのだ。

「あぁ、でも、それだけじゃないんだろ」

 徐々に狭まっていく世界を横目に、中央へ歩き始める。

 彼にとっての世界の真ん中は、もちろん少女だった。

 既に意識はない。

 真っ暗な中で横向きに丸くなり、小さく寝息をたてている。

 彼女を、少年は見下ろした。

 自身の主人でありながら、己が押さえつけているものを見下ろした。

 初めて近くで見た少女は、しかし彼が他の誰よりも知っている姿そのものだった。

 彼女が気にしている鼻の上のそばかすも、同級生にからかわれた泣きぼくろもちゃんとあった。

 髪は夏のプールで程よく色が落ちている。なかなか元の色に戻らない体質なのだ。

 最近美容院に行っていないせいで、いくらか枝毛ができていた。

 瞼は固く閉ざされている。短いまつ毛が時折震えた。

 少年は、少女に尋ねた。


「これでいいんだろう?」

 少女は答えない。


「これが正しいんだろう?」

 少女は答えない。


「これが――大人になる、ってことなんだろう?」

 少女は答えなかった。



 羊飼いの少年は、淡々と仕事をこなした。

 羊たちも、ただ柵を飛び越えた。作業的に、ベルトコンベアに乗せられた商品のように。

 少女が羊を数える夜は、徐々に増えていった。

 羊の数は多くないのに、眠る際彼女は必ずそれを必要とするようになった。

 まるで、お気に入りの毛布にくるまる幼子のようだった。

 起きている間の彼女には何の問題も無いことを、少年はよく知っている。

 休み時間は友達と話し、授業中は適度に勉強をした。家に帰ると宿題を終わらせ、友達とオンライン上で遊んだ。

 家族との仲も悪くない。母親は小言を言うが、それが愛情から来るものだということを少女は理解している。

 当たり前のような現実の日々があるだけだ。

 今日もまた自分の脳の中で寝こける少女を見ながら、少年は語りかけるように喉をふるわせる。

「生活上必要な想像力さえあれば、上手くやっていけるもんだよ。いきなり羊が暴れ出すような想像は、妄想って言うんだ」

 羊も、空も、柵さえない暗闇の中で、ぽっかりと浮かぶ少女の横顔は、どこか大人びて見えた。

 肌はやや青白い。身体は細く、しかし確実に身長を伸ばしている。今きっとこの瞬間にも、彼女は大人へと近づいている。

 少年は少女へと手を伸ばした。

 彼女の左頬に指先が触れる。

 少女に触れたのは、これが初めてだった。

 感覚はよく分からなかった。自分に触れているようなものだから、感覚なんて覚えていないのかもしれない、と彼は思う。

「なんか、触っている気が、しないな」

 ははは、と。

 から笑いはそのまま真っ暗な空間へ溶ける。

 少年は唇を噛んだ。

 下唇がひび割れて、少し血の味がする、気がした。

 気がしただけだった。

 少年は所詮、少女の脳内に住む羊飼いでしか無かった。

「でも、さあ」

 口元を上げる。精一杯強がっているように聞こえるように、声のトーンを上げる。

「ちゃんと覚えているのは、君なんだよ。髪にできた枝毛も、クラスメイトにからかわれたことも、唇から血の味がすることも。それを君は、ここに再現できる。こうやって、僕を作り出している」

 少女は答えなかった。小さく身じろぎををするだけだった。

 少年は徐々に、自身の発する言葉が荒っぽくなっていくのを感じた。それはいつか少女が読んだ、漫画のキャラクターに似ていた。

 どこか薄っぺらくて、それでも己が人間であると思えるような感覚だった。

 あくまでその感情すら、別に新しくも何ともない、少女の妄想に過ぎないとしても。

「なあ、これでいいのかよ。これが正解なのかよ。先を見通すとか、人の気持ちを考えることだとか。美術の授業で、それなりの成績を貰えるものを考えるとか。そういうものが、本当に想像だと思っているのか? そうじゃないだろう。僕らはもっと、どうでもいいことのためにそれを使うべきじゃないのか」


 これが、大人になるってことなのかよ。


 泣きそうな声で、少年は言った。涙は出てこなかった。彼は、少女がしばらくの間泣いていないことを知っていた。

 だから、泣きそうなフリ、なのだった。


 なあ、と顔を真っ赤にして少年は話しかける。

「いい加減、寝たフリはやめなよ。お話しようぜ」


 少年の背後が爆発した。

 特撮ヒーローものそっくりな炎が周囲に飛び散った。

 地面が固く白っぽいそれに変わる。少女が昔動画で見た、月の地面に似ている。

 羊たちが宙を走り回っている。柵はクリスマス・イルミネーションみたいにごてごてに飾られていた。

 低く大きな音がしたと思えば、いつの間にか現れた東京タワーがくずれていく。

 次の瞬間、今度は世界が一気に緑に埋め尽くされる。

 ビルは窓が割れ、苔むしている。最初から居ましたが、とでも言いたげな川には橋がかかり、それも瞬く間に風化した。少女のお気に入りのアニメのワンシーンだった。

「わざわざディストピアにしなくても」

「だって『それっぽい』から……ふふ」

 横向きに丸まったまま、少女はぱっちりとその目を開けていた。単調に言ってから、耐えられなくなったかのように、くすりと笑う。

「あなたも暇ねえ」

「君がそうさせてるんだろ。あのなあ、毎回爆発って飽きがこない?」

 少年は呆れたように言う。

「ほら、よく言うじゃない? 『爆発オチなんてサイテー!』って。元ネタ知らないんだけどさ。鉄板の美だよ」

「n番煎じってやつだろ」

「創造は模倣から始まるもんだよ。模倣と妄想と理想の混じる世界が、いつか何かを生み出すことを私たちは信じているんだ」

 軽快な会話が、少女によって全て仕組まれているだなんて、少年にはどうでもいいことだった。

 元々演出は少しくらい過剰な方が好きな少女だ。

 本につづられた文字をなぞるように、舞台の台本をそのまま読み上げるように、彼らは語る。

 それらは全てどこか見覚えのある風景で、どこか聞いたことのあるセリフだった。

 彼らの足元には、白い花が一輪だけ咲いていた。

 きっと、見たこともない花だった。

 荒廃した世界の中で、彼女は尋ねる。

「でもさぁ、こんなにめちゃくちゃでいいのかな? こんなの、お話にもなりゃしないよ」

 少年は答える。

 既に用意していた、ずっと隠し持っていた答えを、少女に伝える。

「いいんじゃないかな? 自分の中でくらい、自由であっても」



 羊は今夜も、人々の脳内で柵を飛び続ける。

 眠れない夜は、目を閉じてみるといい。

 あなたの羊は、確かにそこにいる。

 その羊は空を飛ぶかもしれないし、爆発するかもしれない。羊飼いは、時にあなたを窘めるだろう。

 それでも、あなたの羊はそこにいる。

 メェ、と羊が鳴いた。

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