道化師

増田朋美

道化師

その日は、暑い日だったが、車椅子野球の練習が行われていた。車椅子で野球なんてちょっとありえない事かもしれないけれど、それでも独自に改良されたルールのお陰で、みんな楽しく野球ができるようになっている。そうなると、車椅子野球を作ってくれた人は、本当にすごいなと思うはずなのだが。

「え?野球をやめるの?都倉さん。」

車椅子野球チームの監督をしている、渡邉将平さんは驚いた顔で言った。相手の都倉さんと呼ばれた若い男性は、そうなんです、と小さい声で恥ずかしそうに言った。

「だって、来月の試合をあんなに楽しみにしてたのに?」

「そうなんですけどね。」

都倉さんは、申し訳無さそうに言った。

「ですが、東京に住んでいる姉の様子がおかしいと、連絡がありまして。」

「様子がおかしい?それはどういう事?体でも悪くしたの?」

将平さんが聞くと、

「いや、体のことじゃないんです。とてもいいにくいことなんですけど、」

と、都倉さんは話を始めた。

「ははあ。病気であるという自覚がなくて、病院にいかないのかあ。精神疾患ではよくある話のようだけど、非常に難しいものでもあるなあ。」

蘭と食べていたフライドポテトを失敬して、杉ちゃんが言った。

「そうなんだよ。それで、わざわざ車椅子の弟さんが、お姉さんになんとか、病院に行くように説得に行くんだって。それでしばらく野球の練習には来られないんだそうだ。せっかく、ホームランバッターを手に入れたと思ったのになあ。これでは、また、筒抜けだよ。」

将平さんは、がっかりと落ち込んだ。

「そうですか。確かに有能なバッターがいなくなるのはなんだか寂しいですね。でも、そのお姉さんが、おかしくなって治療をしようとしないと言うのもまた問題ですね。誰か、他に説得する人はいないのでしょうか?」

蘭が聞くと、

「うーん、彼の話を聞いたんだけどね、なんでも、お姉さんは、一人息子である都倉和樹くんを失って以来、精神疾患を発症しているようだが、本人は、息子さんが亡くなったということはわかっていないらしい。かと言って、認知症になる年齢でも無いようなんだよ。なんとか病院へ行ってもらいたいと都倉さんはいっていたんだけど。」

と、将平さんは答えた。

「なるほどねえ。まあ、なんとかして説得しなければならないなあ。」

杉ちゃんはそう言ってまた蘭のフライドポテトを失敬した。蘭も

「世の中には、そういう恵まれない人も居るんですね。」

と言ってしまうのだった。

それから数日後のことである。蘭と杉ちゃんが買い物から帰って、商品を選別していたところ、蘭の家の固定電話がなった。

「はいもしもし、伊能ですが?」

電話の相手は、渡邉将平さんだった。

「蘭、すぐに来てくれ、こないだ話した、都倉さんのお姉さんが、自殺を図ったそうなんだ。なんでも発見が早かったんで、腕にかすり傷を作っただけのことだが、弟さんだけでは、どうにもならないらしい。ちょっと話をしてやってくれ。」

将平さんはそんな事を言っている。

「どうにもならないって、偉い錯乱状態とか?」

蘭がそうきくと、

「いいからすぐに来てくれ。お前みたいに精神疾患を持っている人に慣れている人でないと、相手ができないと思うぞ。医療従事者の言うことなんか聞かないし、家族がいくら説得をしても聞かないんだよう。」

と電話の奥で、そういう言葉が聞こえたので、蘭は、仕方なく指定された救急病院にいってみることにした。とりあえず、絽の羽織を身に着けて、急いでタクシーを呼び、その救急病院に向かった。

蘭が病院のスロープから、病院入口に入ると、

「おう、蘭、来てくれたか。その都倉さんのお姉さんという人はこの人だ。ちょっとこっちへ来てくれないか。」

将平さんは、蘭を救急病院のある部屋に連れて行った。蘭がその通りに部屋に入ると、白髪交じりの挑発をボサボサにした女性がいた。確か将平さんの話では、認知症になるような年齢では無いと言っていたが、それでもかなりのおばあさんのように見えてしまった。女性は、しっかりと、小さな子どもさんの写真を抱えて椅子に座っていた。その近くで、車椅子の男性が困った顔をして彼女を眺めていた。多分この男性が都倉さんという男性なんだろうなと蘭はわかった。

「あなたが都倉さんですか?」

と蘭が言うと、

「ええ。姉の都倉真奈です。僕は弟の都倉和美です。」

車椅子の男性が答えた。

「そうですか、病院に行ってくださらないのはこの女性。」

「ええ。僕は何回も、彼女に見てもらったほうがいいといったんですけど。」

和美さんの顔は真剣だった。それは多分きっと、都倉真奈さんの持っている問題が、とてもつらいということなんだろうと思う。

「わかりました。僕は、医者でも心理学関係者でもありませんが、それでも良ければお手伝いします。」

蘭はその和美さんの顔を見て、なんとかしなければならないなと気持ちになった。それくらい、都倉真奈さんの顔は、悲しみというか、怒りというか、そういう顔だったからだ。

「しかし、僕の言うことは全く聞いてくれませんし、ご覧の通り、無視をし続けて、何も話が通じない状態です。その様な姉にどうやって、話をすればいいでしょう。」

「都倉さん。あなたが、お姉さんの事を心配する気持ちもわかりますが、こういうときは、精神関係に詳しい方のお話を聞くということが大事です。僕の知り合いを呼び出しましょう。」

蘭は、そう言って、スマートフォンを出した。そして、ラインと呼ばれているアプリを立ち上げ、なにか文句を打ち始めた。こういうときに、電話をしなくていいのは役に立つのだった。声を出したら、患者である都倉真奈さんにも聞こえてしまうし、それで返って悪影響を与えてしまう可能性もあるからだ。

製鉄所でその連絡を受けたジョチさんは、

「珍しいですね。蘭さんからメールが来るとは、予想していませんでした。」

とすぐにメールアプリを開いた。

「なになに、どうしたの?」

杉ちゃんもすぐ言った。

「ええ。なんでも、急遽精神科にいかせたい女性が居るようですが、誰の言うことも聞かず、無視を続けているので話が通じないそうなんです。こういうときに最近は説得屋とかいう商売が流行っているようですが、実はこういう商売は実に危険ですよね。返って信頼していた家族関係が崩壊してしまったら、大変ですから。そうならないように、うまくやることができる人を連れてこいと蘭さんのメールには書いてありました。ですが、こういう女性を、相手にするというのは大変難しいですよ。」

ジョチさんは、大きなため息を付いた。

「あの、すみません。その役目、私にやらせてください。」

と、由香を掃除していた、野上梓さんが、そう言ったので、ジョチさんも杉ちゃんもびっくりする。

「野上さんが説得するんですか?ちょっと、女性には難しいと思いますが。弟さんの言うことも聞かないと言うことですからね。それをうまく収めて、病院まで連れて行くというのは非常に難しいと思います。」

ジョチさんがそう言うが、野上梓さんの決意は硬いようであった。

「いえ、大丈夫です。私は、日本人ではありませんが、それだからこそ、できる事もあるのではないかと思っているんです。どうか、その人のもとへ行かせてください。」

と、梓さんは言った。

「でも大丈夫でしょうか?あなたが殴られて怪我をする可能性だってあるんですよ。」

ジョチさんがそう言うが、

「大丈夫です、殴られるのも私は慣れています。」

「はあそうなのねえ。そういうことなら、ちょっとやらせてみたらどうだ?」

と杉ちゃんがジョチさんに言った。

「わかりました。それでは、野上さんに行ってもらうことにしましょう。ただし、身の危険を感じた場合は、すぐに戻ってきてくださいよ。」

ジョチさんはそう言うと野上さんは支度をしてまいります、と言って、すぐに出かける支度を始めてしまった。ジョチさんは、トゥチャ族の女性をそちらに送ると返信をうった。そして、野上梓さんに、救急病院の場所と、もし失敗したら、すぐに帰って来るようにと言って、ジョチさんたちは、彼女を送り出した。

「全くあいつも何をやっているんだろう。トゥチャ族なんて、文明化されていない部族の女性を送ってよこすなんて。」

蘭はジョチさんの返信を眺めながら、困った顔で言った。

「こういうときだったら、普通はカウンセリングの専門家とか、そういう人間をよこすのが当たり前なのに?」

その間にも、都倉真奈さんは、しっかりと都倉和樹くんの遺影を抱っこしたまま動こうとしない。都倉和美さんがねえさん、なにか反応してくれないかなと言っても、なんにも反応しないのだった。

「どうしてこんなふうになってしまったんでしょう?」

和美さんは辛そうに言った。

「ああして、和樹くんの写真をずっと持って、和樹くんが亡くなったこともわかろうとしないのでしょうか。それとも、わざとああして、縁起みたいなことをしているんでしょうかね?」

「そうですね。わかろうとしないというか、わかりたくないんじゃないのでしょうか?」

蘭は、そう和美さんに言った。

「そもそも、和樹さんという方はどうしてなくなられたのでしょう?」

「僕も詳しくは知らないんですがね。姉の話によると、学校の宿題をやってこなかったせいで、えらく叱られてしまったようで、自殺してしまったようなんです。」

指導死というやつか。それでは確かに、受け入れるのは難しいだろうなと蘭は思った。

「それが、和樹くんの行った学校は、昔は、ものすごい名門の学校だったようで、それで、姉は誰かに信じてもらうこともできなかったようで。みんないい学校に限ってそういう事は無いじゃないかというと言って、大暴れしたこともありました。」

和美さんはそう話を続けた。確かに、名門と言われていた学校で、その様な不祥事があったとは、非常に受け入れがたいだろう。それに、周りの人に信じてもらえないということも蘭はわかる気がした。

「こんにちは。」

と、部屋のドアを叩く音がした。来たのは、野上梓さんである。

「はじめまして。梓と申します。あたしは、中国から来た、お手伝いさんです。あなたのことなら何でもしますから、遠慮なくおっしゃっていただけないでしょうか?」

と、梓さんは、そう言って、彼女、都倉真奈さんの前にたった。

「私、野上梓です。都倉真奈さんですよね。はじめまして。こんにちは。今日は、あなたとお会いできて嬉しいです。」

野上梓さんがそう言うと、都倉真奈さんはじっと梓さんを見つめた。

「なんか、」

真奈さんが初めて口を開いた。

「はい。何でしょう。」

梓さんはそう言うと、

「あなたって、道化師みたい。だって、そんな顔してるもの。その白い顔と言い、なんといい、ホントに道化師みたいだわ。」

真奈さんはそういった。

「ねえさん、こんな時に冗談はよして。」

都倉和美さんがそう言うが、梓さんはそれを止めなかった。

「いえ、いいんですよ。道化師と言われたことは他にもありましたからね。そう言われてもこの顔ですから仕方ありません。それより、私は、真奈さんが私の言うことに反応してくれて嬉しいです。」

梓さんは、そういって、真奈さんににこやかに笑いかけた。

「嬉しい、、、ですか?」

真奈さんは、そう言っている。

「ええ。とても嬉しいですよ。だって、真奈さんが反応してくれたんだもの。」

梓さんがそう言うと、

「ホント、、、ですか?だって私がなにかいうと、みんな嫌だとか、また何か言っているとか、そういう事を言うんですもの。私には、実際に聞こえてくるんです。」

と、真奈さんは言った。

「聞こえてくるって何が聞こえてくるのですか?悪口とか、そういうことかな?」

梓さんはそう聞いてみた。

「いえ、悪口ではありません。息子の声です。お母さん、こっちにきてって、ずっと言ってるんです。だから私も、早く息子のところに逝ってあげたいと思うのです。」

「ははあなるほど。その息子さんの声が、幻聴というものになるわけですね。」

蘭が、そうつぶやくが、真奈さんはそれも否定しなかった。

「それは、どんなときに聞こえてくるのですか?」

と、梓さんが聞いた。

「ええ、一人で寂しいとき、聞こえてくるんです。時々、息子と話をするときもあるんですよ。だから息子は、きっと今は姿を隠しているだけだと信じてます。みんなもうあの子はここにいないと言いますが、私は、いつかきっと、ここへ戻ってきてくれるって信じてます。息子が、そう言ってくれてるなら、息子のもとへ行くのも構わないと思います。」

真奈さんはそういった。

「でも、息子さんは、自殺でなくなられたのでしょう?」

と、蘭が言うと、

「いえ、そんな事、ありません。だって、あの子は、あの日、朝笑って、行ってきますって行ったんですよ。だから、必ず帰ってくるって、戻ってきてくれるって信じてます。だから、あの子は帰ってくる、帰ってくる、必ず帰ってくる。学校の先生の許可が下りれば絶対帰ってくるんです。」

真奈さんの言い方はだんだんに泣きそうになっていき、ついには涙をこぼしている様な言い方になった。それを聞いて、蘭たちは、もしかしたら、息子さんが死亡したことを、真奈さんは知っているのではないかと思った。ただそれを受け入れることができなくて、まだ帰ってくると思い込んで居るだけである気がした。だけど、それを乗り越えるのは本当に難しいんだということも改めて知らされた様な気がした。

「そうなんですね。でも、息子さんはいつまで待っても帰ってこないんですよね。」

梓さんは、口調も変えずに言った。

「もうお葬式も済ませたじゃないか。火葬場で、和樹くんの骨を拾うことだってしたじゃないか。そのあとになって、こんな変な事を言うなんてやっぱりねえさんは、病気なんだよ。」

と、和美さんは心配そうに言った。

「そんな事ありません。私は母親です。和樹はあの日、笑って行ってきますといった。だから、必ず帰ってくるんです。必ず帰ってくる、必ず帰ってきます!」

「そう思いたいんですね。和樹くんは、必ず帰ってくるって。でも和樹くんがもう帰ってこないことも知っているんでしょう?」

梓さんは、そういう真奈さんに静かに言った。

「そうですか。お母さんはそんなに和樹くんの事を愛していることが実感できましたよ。それが和樹くんにちゃんと伝わっていれば、彼が自殺することもなかったかもしれない。」

と蘭は思わず真奈さんに言ってしまった。

「和樹くんは、学校に行って、宿題をやってこなかったために、担任の先生からえらく叱られて、学校の近くにあった高層ビルから飛び降りて死んでしまったのです。だから、姉は、いつまでも帰ってこないと言っているんだと思います。」

和美さんが蘭にそう説明した。

「そういうことですか。そういうことなら、余計に彼女が可哀想になりますね。学校に行ったきり、二度と我が子に会えなくなってしまったわけですから。例えば、弁護士を立てるとか、そういう事はしなかったのでしょうか?学校に損害賠償を求めるとか。」

蘭がそう言うが、泣いている真奈さんが答えだと思った。それほど泣いている彼女は、多分損害賠償とか、そういう事をやっている暇というか、そんなことができる余裕は無いだろう。そうなると、学校というところは平気で隠そうとしてしまうものだ。そうしてのうのうと学校の先生も、教師を続けているし、他の生徒だって、平気な顔をしているに違いない。もう少し、学校側もちゃんと謝罪をしてくれればよかったと、蘭は思ったのだった。

「そんな事、できるわけ無いじゃないですか。」

と、和美さんは、小さな声で言った。

「それができるんだったら、とっくにしてますよ。大事なことは、真奈さんの気持ちを最後まで聞いてくれる人がいなかったんじゃないかな。だから、真奈さんは、いつまでも悲しい思いをしているんでしょう。だから、それを聞いてくれる人が必要だったんですよ。それが得られれば、おかしくなることもなかったと思います。」

梓さんが、そういった。そういう事を言いきってくれる梓さんを見て、真奈さんは、

「あなたはやっぱり道化師みたいだわ。そうやって、使えていた人の愚痴を聞く役でもあったのよ。おとぎ話の本に書いてあったわ。」

と、梓さんに言うのだった。

「そうなんですか。確かに、宮廷道化師とか、そういう人もいましたものね。そういう人って、皆ワケアリの人ばかりね。大丈夫よ。私は裏切るような真似はしません。だって私は、真奈さんが反応してくれて、嬉しいから。」

梓さんがそう返すと、

「そうなのね。初めて会ったわ。そういう人がいてくれて私も嬉しかった。」

と真奈さんは言うのだった。蘭は彼女をどうやって医療機関に連れていくか心配になったが、

「真奈さんは、きっと、息子さんをなくして、息子さんの事を受け入れられなくて、苦しいのよね。それは決して悪いことじゃないし、悲しいことでもないわ。でも、それを今の医学では薬で和らげたり、いろんなやり方で、和らげることもできるのよ。だから、真奈さんも一度、病院に行って、見てもらいましょう。」

と、梓さんは真奈さんの肩を両手で支えながらそういうのであった。真奈さんはそうしてもらえたことが、とても嬉しかったようで、

「よろしくお願いします。」

と泣きながら言ったのであった。

「じゃあ、行きましょう。大丈夫、私はあなたに悪いことを吹き込むとかそういう真似はしない。あなたが楽になってくれればそれでいい。薬で和らげたり、他の治療を受けてもいい。そうなってくれればそれでいいのよ。」

「はい。ありがとうございます。そう言ってくれる人は初めてです。だから、あなたの言うことは、その通りにするわ。」

梓さんは、真奈さんの肩を支えながらそう言うと、スマートフォンを出して、影浦医院へ電話をかけ始めた。ここで初めて、統合失調症の疑いのある女性が居るという言葉を使ったが、それに真奈さんは反応することもなかった。


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道化師 増田朋美 @masubuchi4996

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