第43話
あれから、三日経った。
茫然自失となりながら、私は自室で荷物を鞄に詰めている。
その荷造りは、もちろん自分の故郷、ミルレンノーラ共和国に帰るため。
とはいえ、そもそも嫁いでくるのにそこまでの荷物は持ってきていない。
であるにもかかわらず作業が捗らないのは、私の頭の中にずっとこの疑問が渦巻いているからだ。
……もし私がユーリックブレヒトへ投げかける言葉が違ったものだったら、こんな結末は避けられましたの?
もっと、彼の気持ちを慮ったものであったのなら。
もっと、彼の思いに寄り添ったものであったなら。
しかし、どれだけ考えた所で時間を巻き戻すことは出来ず、私が吐いた言葉も取り消せない。
だが私は、どうしてもそのあり得なかったもしも、を考えてしまう。
他のことを考えているので、作業も全くはかどらない。
そんな状況の中、私の部屋をノックする音が聞こえてきた。
『奥様。準備の方はどーですかね?』
ソルヒの声に、扉の方へ視線を向ける。
「……あまり、捗っておりませんわ」
『お手伝いさせて頂いた方がいいですかねー?』
「ええ、お願い致します」
もう結論は変わらないというのに、悪あがきをするように、私は荷造りを終えれられなかった。
ならばいっそ、ソルヒに頼って、全てを終わらせようと思ったのだ。
部屋に入ってきたソルヒは、テキパキと荷物を片付けていく。
私とユーリックブレヒトとの離婚は、あの後すぐに使用人たちにも伝えられていた。
オスコたちの件に加えて唐突な離婚という話に、彼らは当初酷く狼狽していたように思える。
だが、流石ユーリックブレヒトに付き従ってきた使用人とも言うべきか、もう彼らは既に物事を受け入れ、切り替えているようだった。
切り替えられていないのは、この屋敷の中で唯一人。
つまり、私だけだ。
……アシュは、随分泣いてくださいましたわね。
私がこの家を離れると知り、アシュはとても悲しんでくれた。
だが、最終的にユーリックブレヒトの説得を受け入れたようだ。
……お父様の言うこともわかるから、と言っていましたわね。
それは、そうだろう。
自分を危険に晒すような母親とは、アシュもずっと一緒にいたくないはずだ。
母親失格である。
でも私はそれ以上に、アシュと会話をしていて母親失格だと痛感する感情を抱いてしまった。
それは――
……私、アシュがユーリックブレヒトを説得してくれないかと、そう期待してしまいました。
自分の言葉に彼が耳を貸さないのであれば、息子にどうにかしてもらえないかと、そう考えていた自分がいた。
守らなければならない愛しい息子を頼り、彼との仲を延命しようとしてしまった。
延命。
確かに、その表現が正しいかも知れない。
もしアシュに頼って一時時間を稼げたとしても、それで繋いだ先にあるのは全く同じ終わりでしかない。
むしろ時間を繋いだ方が、より苦しい終わりが待っているのだろう。
……本当に、ダメな親ですわね、私。
「はい、出来ましたよー」
ソルヒの言葉に、私の意識は現実へと引き戻される。
もう、この部屋を出なくてはならない。
出たら屋敷も離れなくてはならず、そしてもうこの国に訪れることもないのだろう。
アシュとも、もう会えないのだ。
「アシュは、今日もユーリックブレヒトと一緒に?」
「はい。公務に一緒にお出かけですねー」
アシュを一人で守ると言った決意の現れか、ユーリックブレヒトは息子を公務にも連れて行くようになっていた。
自分の知らない所で危険な目にあうぐらいなら、変な虫が寄り付かないよう自分のそばで目を光らせている方がいいと判断したのだろう。
彼の決意が伝わり、そしてユーリックブレヒトにそんな頑なな行動を取らせてしまった原因が自分であるという事実に、心臓が握りつぶされたような痛みを得る。
……いつの間に、私はこうなってしまったのでしょうね?
彼とは、仮面夫婦としての同盟を結んだ関係でしかない。
互いにこの国でアシュを守るために組んだ、あくまで愛する息子を守るためのもの。
その認識が変わったのは――
「奥様。そろそろ馬車のお時間が近づいて来てますよー」
「……そうね。行きましょう」
もう何を考えても、既に詮無きことだ。
部屋を出ると、ショルミーズが弱ったような顔をして立っていた。
「お荷物、お持ちいたします」
「おーおー、ちゃーんと力仕事で役立てよなー」
「私、本当の仕事は庭師なんだけどなぁ」
ショルミーズに荷物を預けて、私たちは玄関まで向かっていく。
彼は歩きながら、ポツリと呟いた。
「奥様がいなくなると、寂しくなりますね」
「おいおい、そりゃそーだろうがよ。残ってもらえるもんなら、私だって残ってもらいたいさー。でも、旦那様の決定にゃ、逆らえねーだろ?」
「そうだけど……」
「ありがとう。そう言ってもらえるだけで、私も報われますわ」
出来ることなら、私もこのままここに残りたい。
しかしこの家で、ユーリックブレヒトの決定を覆せる人はいなかった。
唯一可能性があったのはアシュだが、息子の判断は先程話した通り。
そして今日私が家を出るという事は、王族たちもユーリックブレヒトの説得に納得したのだろう。
ここで私がわがままを言えば、クロッペンフーデ大王国とミルレンノーラ共和国の関係が悪化するかも知れない。
王族の血を引くアシュを危険に晒した女が無理に居座ろうとするなら、彼らは私の故郷に圧力をかけてこちらを排除しようとするだろう。
……そうなったら、お父様に迷惑をかけるかもしれませんものね。
そう思っている間に、私たちはもう玄関の前までやってきていた。
馬車も既に待機しているが、運転手は屋敷の人間ではない。
理由は、人手不足だ。
ラルヴァ男爵と通じていた使用人たちは当然解雇、断罪済みではあるが、その数がそれなりに多かったのだ。
そのため、私が嫁いできた時と同じく故郷まで直接送ってくれる人員がいない。
だから私は馬車で鉄道まで移動し、そこからミルレンノーラ共和国に帰ることとなっていた。
「それじゃあ、アシュの事はお願いね。それから、ユーリックブレヒトの事も」
「もちろんです、奥様」
……もう明日から、奥様ではなくなるのですけれど。
そう思いながら、私は馬車に乗り込んだ。
暫くすると、駅が見えてくる。列車が上げる石炭の煙が、空に向かって長く伸びていた。
それを横目に馬車を降りて、駅の改札をくぐる。
切符で時間を確認すると、私が乗る予定の列車の出発時刻まで、後三十分程時間があった。
その時間を、私はどこに行くでもなく、ただホームのベンチに座ったまま過ごすことにする。
待っている間に、この国にやってきた時の事が脳裏に蘇った。
不安になりながら、ユーリックブレヒトの屋敷にやってきた。
そこで彼やアシュと出会い、使用人たちから嫌がらせも受けた。
そしてアシュにいたずらをされ、それがきっかけでアシュと仲良くなることが出来た。
ユーリックブレヒトはいけ好かないやつだと思っていたけど、私が社交界デビューしたのをきっかけに、彼がアシュを大切に思っていると知れた。
そして遅れて結婚式を上げることになったのだけれど、アーングレフ公爵にヒッチャカメッチャカにかき回された。
でも、そのおかげでユーリックブレヒトの想いに触れることが出来た。
同盟を結び、しかしサーカスを観に行ったことで、私は彼の事を裏切って――
……あ、れ? どう、して? どうして、今頃になって、涙が。
もう、流せるだけ流しきったと思ったのに。
今までの思いでが溢れるように、頬を伝う雫が止まらない。
……ダメよ、私。これから自分の国に帰るというのに、最後の最後にこんな醜態を晒すだなんて。私らしくありませんわ。
だが、拭っても拭っても、涙は流れ続けてくる。
そんな私のそばに、小さな人影がやってきた。
そしてたどたどしい口調で、話しかけてくる。
「あれ? お兄ぃちゃんのお母さん?」
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