第39話
私が蹴り上げた籠は、中身の虫を当たりに撒き散らしながら飛んでいく。その終着地点は、私を殺そうとしていた男の顔面だ。
「おうぇ! 臭い! なんだこりゃ!」
「臭いが、倉庫だから臭いが中にこもる!」
「おい、誰だ! 明かりを落とした馬鹿は!」
ランプでも割れたのか、倉庫の中に明かりが灯る。それはすぐに中のホコリを触媒に、より大きい炎となっていた。
「……やってくれたじゃねぇか、おい」
背後から、今日ぶつけられた中で最大級の殺意を向けられる。
でも、私は全く気にしていなかった。
アシュの姿が、もう倉庫の外に見えなかったからだ。
倉庫の見張りたちは、私を殺した後逃げるために船の準備をしているため、この場にはいない。こいつらの予定では、私は今頃あの黒に塗られた縄の罠で無様に死んでいることになっている。だから倉庫の外には、誰も人を配置していないのだ。
完全にこちらを見下した采配だけれど、そのおかげでアシュは誰にも邪魔されずに逃げだすことができた。
……逃げたアシュに気づいたショミドーズと、合流してくれていればいいんですけれど。
「気が変わった。お前は殺さねぇ。その代わり、なぶりになぶって、殺してくださいと頼んでも生かし続けて、その後に――」
そこで、男の言葉が止まる。
入り口を見る私の前にも、何かが落ちてきた。それは私を殺そうと、やつらが入り口に張っていた黒の縄だった。
「ぐぁぁぁあああ! な、なんで剣が! 俺の腕に、剣が刺さってるんだっ!」
振り向くと、男が言った通りの惨状があった。やつの左肩に、剣が深々と突き刺さっている。
血しぶきを撒き散らし、悲鳴を上げながら混乱する男を見ながら、私も困惑していた。
……何が、起きていますの?
「外はもう、日が落ちているからな。倉庫の入り口からこぼれる光で、中がよく見えた。おかげで、狙いが定めやすかったぞ」
その言葉が言い終わる前に、暗闇に白銀の閃光が走る。
入り口の扉、だけでなく壁すら一部破壊され、それらは残骸となって音を立て地面へ崩れ落ちた。そしてその外側に、無数の兵士たちの姿が見える。
そんな兵士たちの先頭には、一人の人影が佇んでいた。
その人影は剣を携えて、最初に倉庫の中に乗り込んでくる。それは、赤い瞳をした男だった。
その瞳は灼熱の業火のように燃え盛る炎のような、そんな赤色をしている。
かつてその宝石のような両目を抉り出すことも考えたと吐露した男の名前を、私は口にした。
「ユーリックブレヒト……」
「公爵家が動かせる、直属の憲兵だと? 馬鹿な! まだ道の封鎖は行われているはず! これだけの人数の憲兵を連れてこられるわけがない!」
「陸路なら、そうだろうな。だが、ここには川が流れている」
それは奇しくも、男たちが脱出経路で使おうとした経路だった。
ユーリックブレヒトは、それを逆手に取ったのだ。陸が通れないのなら、陸以外の経路でこの場にたどり着けばいい、と。
「取り押さえろ」
彼の指示で、倉庫を囲んでいた兵士たちが一気に流れ込んでくる。中にいた男たちは抵抗するも、それはもはや象に抗うアリの如しだった。あっという間に戦いの主導権は憲兵たちに持っていかれ、逃げ惑うものの、男たちはどんどんと地面に組み伏せられていく。
それを呆然と見上げている私のそばに、ユーリックブレヒトが膝をついた。
「傷は?」
「大丈、痛っ!」
右肩をつつかれ、私は思わずうめき声を上げる。そんな私を冷徹に一瞥し、ユーリックブレヒトは私を抱きかかえるように持ち上げた。
完全にお姫様抱っこだった。
「ゆ、ユーリックブレヒト! な、何をしていますの!」
「怪我人は黙っていろ」
そしてそのまま倉庫を出て、止めてある馬車たちの、その一台に乗り込む。
彼は優しく座席に私を座らせて、ユーリックブレヒトは向かいの席に座った。そして視線をこちらに向けることなく、無表情で倉庫の方を向いている。彼が強引に作り出した入り口から、誘拐犯の男たちが次々に連行されていった。
夜の帳が降りる世界で、私たちは沈黙だけが詰め込まれた馬車に座っている。
無言だけが支配する世界に耐えきれず、私はユーリックブレヒトに向かって口を開いた。
「アシュが誘拐されたと知って、ここに?」
「それ以外に、何がある」
声色に、初めて出会ったときのような冷たさを感じて、私の背筋も冷たくなる。別に以前の状態に戻っただけなのに、私はどうしようもないほどの焦燥感を得た。
「そ、そうですわよね。でも、どうやってここが? あなたのそばには、トデンダーがいたはずでは?」
「ソルヒが、一芝居打った」
「……なるほど。ソルヒが言っていた応援というのは、ユーリックブレヒトのことでしたの。それであなたに通信局舎やら電話した彼女は、トデンダーにこういう内容を言ったわけですのね。『アシュの誘拐を今知った。仲間に加えて欲しいが、今は旦那様に直接伝えるべき火急の用がある。すぐに替わって欲しい』と」
「一回だけ、しかも同じ俺の使用人同士でしか使えん策だがな」
「……それで、アシュは? 無事ですの?」
「無論だ。ショミドーズと一緒にいるところを保護した。ソルヒに診せているが、俺に連絡が来ないということは無事なのだろう」
「……それは、よかったですわ。本当に」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あ、あの、それで、オスコたちのことですけれど――」
「何故だ」
「え?」
「何故、俺を頼らかなかった」
そこで初めて、ユーリックブレヒトは私の方へ視線を向けた。
その宝石のように美しい赤い瞳には、今まで私が見たこともない感情が宿っている。
それは、悲しみだった。
「俺たちは、同盟を結んでいたのではなかったか? アシュバルムを守るために」
「そ、それは、その通り、ですわ……」
何故だろう? 口が乾いて、言葉が出てこない。まるで会話の仕方を忘れてしまったかのように、ユーリックブレヒトを見ることができなかった。
「わ、私だって、色々と、その、大変でしたのよ? オスコがアシュの誘拐に関わっているって、他の使用人たちも、信じられないなんて。そんな中、あなたに連絡する方法なんて、そう簡単に出てきませんわよ」
「トデンダーが、お前の行動の障害になっていたのは理解している。使用人を信じれない心理もな」
「でしたら――」
「その後は? お前は、ソルヒとショルミーズに合流した。そして彼らを信じて、アシュバルムを助け出そうとした」
「で、ですから、その結果として、連絡があなたにいって――」
「あいつらを信用するために、お前はアシュの居場所を探させたな? 俺への連絡を、後回しにして」
「そ、それの何がいけませんの? 愛する息子がさらわれたんですわよ? まずは居場所を探すのが普通ではなくって?」
「家のこと(アシュバルムのこと)は君が、そしてお仕事(貴族社会)のことは俺。そういう役割分担だと言ってくれたのは、君だぞ、セラ」
その静かな物言いに、私は思わず泣き出しそうになった。今ユーリックブレヒトに、こんなに悲しげな表情を浮かべさせているのは、自分の過ちのせいだ。
彼のことを人殺しだと言われ、信じることができなかった自分のせいだ。
「ラルヴァ男爵(貴族社会)が関わっていたのなら、俺の領分だ」
「でも、サーカスを観に行くのは家のこと(アシュバルムのこと)でなくって?」
「それ自体がラルヴァ男爵とオスコたちが仕組んだことなら、やはり貴族社会の領分だろう」
「それが貴族社会の範囲だというのでしたら、そもそもあなたがラルヴァ男爵に付け入る隙を与えなければ、今回のようなことには起こっていなかったのではなくって?」
違う。こんなことを言い合いたいわけじゃない。
さっきまでは全然言葉が出てこなかったのに、今では言わなくてもいい言葉だけが、湧き水のように溢れてくる。
ただ一言。
ごめんなさいと、ただそれだけ言いたいだけなのに。
その、たった一言が出てこない。
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