第38話

「どうして、お母様!」

 アシュの疑問が、私に突き刺さる。彼の疑問ももっとものだ。あと一歩で、外に逃れられたというのに。

 でも、この状況はおかしいのだ。

 そう、おかしい。

 散々無様を晒して冷静な思考ができていなかったけれど、アシュをその手に抱いたからか、今はこの強烈な違和感に気づくことができた。

 それは――

 

 ……オスコの依頼は、私に絶望させてから殺すことですわ!

 

 では、この場所での私の絶望とは、一体なんだろうか?

「なーんだ、気づいちまったのか」

 冷めたような男の声は、もうすぐ後ろから聞こえてきた。でも、それに私もアシュも、反応できなかった。

 なぜなら私の眼前、入り口の扉に、走っている時には気づかなかった、あるものがある。

 それは、立ち止まってしっかりこの目で見れる今だからこそ認識できる、線だった。よく見ればわずかに光っているので、その線には尖った金属が混じっているのかもしれない。

 それは黒に塗られた縄になっていて、入り口の扉に設置されている位置は、ちょうど私の首の高さになっていた。

「そのまま突っ込んでたら、首にそいつが引っかかって喉元がグッチャグチャになってたんだけどな。おしかった」

「……もし気づかずに私の首にこれが引っかかっていても、即死にはなりませんわね。首を刎ねるには、太すぎますもの」

「そうさ。それが、その罠のミソでな。血管まではズタズタになるが、傷つけられるのはそこまでだ。そして引っかかったやつが死ぬのは、そのまま出血して、大量の血液が流れた後だな。それまでの間、そいつに引っかかったやつは、死なずに生きていなくちゃならない。生きて、その後も見ないといけない、ってわけさ。お前が倉庫に入った後、見張り役のやつらに縄を張らせてたんだよ。その準備が終わったら、逃げるために船の準備に行け、と命令してな」

 つまり、あのまま私が立ち止まらず倉庫を抜け出そうとしていたら。

 激痛にのたうち回り、血まみれになりながら。

 アシュがまた連れ去られるのを、止められない状況で見つめながら死んでいたのだ。

「最高に絶望する時っていうのは、絶望から逃れられたと思った時の、その後にある。今まで追われていた絶望よりも、更に最悪な状況になったと気づいて死んでいくのが、まともじゃねぇ俺たちがあんたに用意できる、最高の絶望だったんだけどよ」

「……本当に、悪趣味ですわね」

「俺たちの考えにたどり着いたお前が言うなよ。やっぱりまともじゃないぜ、お前もな」

「お母様が、お前たちと同じなわけがないだろ!」

「やめなさい、アシュ!」

 私はそう止めるが、アシュは歯を食いしばるように男たちと対峙する。

「お母様は、優しい人だ! 優しくて、賢くって、そして何より、強い人だよ! お前とは、お前たちとは、ぜんぜん違う! 大人数で集まっても全然安心できない臆病者の、集まっても冷たいままで寂しいだけの、自分はこんなもんだって諦めて投げやりに何も考えず暴力に頼るだけの、弱い、弱虫のお前らなんかとお母様を一緒にするなっ!」

「……うるせぇガキだな」

 それに反応できたのは、自分でも奇跡だと思った。男が蹴り上げた足とアシュの体の間に、私はなんとか自分の体をねじ込ませることに成功したのだから。

 アシュに覆いかぶさるように倒れ、うめき声を上げる私に、焦ったように息子が私を呼ぶ。

「お母様!」

「おお? なんだ、まだまだ動けるじゃないか。なんだ? 余力を残して走ってたのか?」

「……ラルヴァ男爵には、アシュは無事連れてくるように言われているのではありませんの?」

「ラルヴァ男爵? 誰だそれ? 知らないね。だが、俺の依頼人はそのガキを生きて連れてこいと言っていたぜ? つまり、生きていれば問題ないわけだ」

「この期に及んでとぼけるだなんて。本当に、最悪ですわ……」

 蹴られた右の肩あたりから、鈍痛が走る。もうすぐ日が沈もうとしているのか、倉庫に入ってくる光が徐々に失われていった。入り口からも冷たい風が吹き込んでくるが、そんなものではこの痛みは癒せない。

 私は歯噛みしながら、アシュを立ち上がらせて抱きしめた。

「ごめんなさい、アシュ」

「どうして、どうして謝るの? お母様。お母様は、悪くないよ!」

「いいえ、アシュ。私にも、悪かったことがあるのよ」

 本当に、アシュをこんな殺意まみれの場所に連れてきたくなかった。こんな悪意に、さらしたくなかった。

 そう考えてユーリックブレヒトへの連絡をためらい、結果愛する息子を避けたかった状況へ連れてきてしまったのだ。

 ……本当に、私は母親失格かもしれませんわね。

 そう思うものの、その言葉は口にはしない。腕の中の彼が母親と呼んでくれるのなら、その時までアシュの母親でいたかった。

 たとえそれが、死ぬ直前であったとしても。

「まぁ、最後に愛する息子の安全を確保できずに死ぬのも、それはそれで絶望か。協力者には悪いが、それで納得してもらうしかないな」

 男が、なぶるようにこちらに向かってくる。それが見えるアシュが、私の服を強く握った。

 日が、もう完全に沈もうとしている。川に反射するオレンジ色の光が、どんどんと黒に染まっていった。

 ……もう、走れませんわね。私。

 今日一日アシュを探し回ったことと、先程の全力疾走。そしてあの蹴りの痛みで、両足に力が入らない。動かせたとしても、片足で一歩がせいぜいだろう。

 私は自分の口をアシュの耳元に持っていき、息子以外に聞こえないよう小声で話しかける。

「いい? アシュ。驚かないで聞いて。今から私が手を挙げるから、後ろを振り返らずに外に向かって走りなさい」

「や、やだよお母様! お母様も――」

「本当に、愛しているわ、アシュ。今までも、そしてこれからも」

「お母様!」

「行きなさい! そして生きなさい、アシュ!」

 目をつぶった私は、こちらの服を握るアシュを引き剥がすと、頭上高く左腕を上げて合図を出す。そして入り口に向かい、痛む右腕で優しく息子の背を押した。

 そんな私を、男が嘲弄する。

「悪あがきをしても無駄だ! お前を始末した後でガキ一人追うぐらい、わけないんだよっ!」

 その言葉と同時に、日が完全に沈む。

 倉庫の中に外からの光が届かなくなり、闇が満ちた。そこに――

 

 入り口から、何かが倉庫の中に投げ込まれる。

 

 それが倉庫の床に落ちた音を聞くと、私は閉じていた目を開けた。

「なんだ? 何が入れられた!」

「誰か、光をつけろ!」

 想定外の事態に、男たちがざわめく。日が落ちる前まで目を開いていたので、光がなくなった後倉庫に投げ込まれたソレの存在を、目で正しく認識できないのだろう。

 でも、目を閉じていた私ならわかる。

 その、草で編んだ籠の存在が。

 ……予備で編んでおいた、悪臭を放つ虫を入れた籠ですわ!

 私が掲げた合図は、この倉庫に入り込む前にショミドーズに教えてもらった『今だ!』とか、『ここだ!』という意味合いのハンドサインだ。それを日が沈む直前、倉庫の入り口まで見通せる彼は、その合図をしっかりと受け取ってくれたのだ。

 ……事前に行っていた、段取り通りですわ!

 倉庫の外の見張りの対応だけでなく、その中にいる誘拐犯を含めて、ソルヒが呼んでくれた応援が到着する時間を稼ぐ必要があった。想定では倉庫に入った私がすぐに見つかり、入り口まで逃げた後合図を出し、予備の籠を倉庫の中に投げ込んで混乱させている。そしてその間に応援が到着する、という予定だったのだ。

 ……でも、ここにたどり着くまで全てが仕組まれたもので、全然予定通り私は合図を出しませんでしたのに。

 それでもショミドーズは、辛抱強く私の合図を待ち続けてくれていた。そしてその合図を見て、行動に移してくれた。

 その籠が入り口に、私の徒歩一歩圏内に落ちている。私は最後に動ける一歩を使うため、無理やり体を動かした。

 そして、叫ぶ。

 

「絶対に、私の息子には手を出させませんわよ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る