第37話
倉庫の入り口を開け放ち、私は中へと足を踏み入れる。見張りの悲鳴を背にしながら、私は足早に物陰へ身を潜めた。
ほとんど使われていなかったのか、ホコリが倉庫の中で宙に舞う。カビ臭さも感じて、私は鼻の前に手を当てた。中は薄暗くって、視界が悪い。
……アシュは、どこにいますの?
そう思いながら物音を立てないよう、ゆっくりと進んでいった。足を動かしながら、私の中でどんどん違和感が膨らんでくる。
……どうして、人の姿が見えませんの?
誘拐犯がよほどの怠け者でなければ、私が倉庫に入り込んだところは見えているはず。もしそれが見えなかったとしても、まだ入り口からは見張りたちの混乱した声が聞こえてきていた。普通であれば、異変を確かめようと仲間が外に向かうはずだ。
……なんだか、嫌な予感がしますわね。
そう思うものの、そうした違和感も次の瞬間に私の頭の中から消し飛んでしまう。
倉庫の中央、その床に横たわる、アシュの姿を見つけたのだ。
息子の口にはさるぐつわがはめられており、手足も荒縄できつく縛られている。身動きできないアシュの顔はうかがいしれないけれど、そのうっ血した手足は見て取ることができた。
……アシュ!
悪手だとはわかっている。誰がどう見ても、これは罠だ。
しかし私にはどうしても、愛する息子が目の前で傷ついているのに何もしないなんてできない。できるわけがない。
アシュの元へとたどり着き、さるぐつわを外す。ぐったり横たわる彼の顔を見て、私はたまらずアシュの体を揺すった。
「アシュ? アシュ!」
「お、お母、様?」
「ああ、アシュ!」
ラルヴァ男爵がアシュを殺すわけがないとわかっているのに、彼が息をして、こちらを認識してくれることが死ぬほど嬉しいし、心の底から安堵出来る。
「ごめんなさい、助けに来るのが遅くなってしまいましたわ」
そう言いながら手首の縄を解いたところで、予想通り下卑た顔の男たちが、私たちを半円状に囲うように倉庫の奥から現れた。
私はまだ立つことができない愛する息子を背にかばうように男たちと対峙して、彼らをにらみつける。
「あなたたち、誰に手を上げたか、わかっておりますの? 私はユーリックブレヒト・ハーバリスト公爵の婦人、セラ・ハーバリストでしてよ! そしてこの子はその愛息である、アシュバルム・ハーバリストですわよっ!」
「そんなもの、百も承知さ。そいつを連れてくるのが、俺たちの仕事だからな」
後ろ手になりながら、私はアシュの足首に巻かれている縄を解こうとする。今は、少しでも時間を稼がなくてはならない。
私の言葉に反応した取りまとめらしい男をにらみながら、私は更に口を開いた。
「仕事? あなた、自分が何をしているのか、わかっておりますの? ユーリックブレヒト公爵の息子に手を出しておいて、この国でまともに生きていけるとお思いなのかしら?」
「バカだな。俺たちはまともに生きていけてねぇから、まともじゃねぇ仕事しか回ってこないんだよ。明日もしれぬ我が身なら、明日だけは保証してくれるやつの手を取るしかないのさ。たとえそれが、どんな悪魔から依頼された仕事であっても、な」
「……確かに、こんないたいけない子をさらうだなんて、まともじゃありえませんわね」
「そういうあんただって、まともじゃないだろうが。そのガキ、お前が産んだんじゃないんだろ? なのに自分の身を危険にさらしてまで、こんなところまでやってきてよ。弱ったガキを見せたら、まんまとわかりやすい餌に食いつくんだからな。マジでまともじゃないぜ、あんた。協力者から聞いた通りの溺愛っぷりだな。びっくりしたぜ」
「協力者、ですって?」
「ああ。ガキの方は死んでなければいいが、自分の主人をたぶらかす悪女はきっちり殺してほしいとさ。きっちり、絶望させてから、な」
……オスコのことですわね!
「それじゃあ、この場所を私たちが特定できたのも」
「わざとに決まってるだろ。そもそも、追ってくるってわかってるのに馬車を乗り換えてない時点で気づけよ。まぁ、愛しい愛しい息子ちゃんの危機で頭が全く回ってなかったんだろうがな。お前を始末したら、すぐに川で移動できる手はずになっている。だから、この場所でお前に追いつかせる必要があったんだよ。ああ、応援が来るのを期待して時間稼ぎのために質問しているつもりだったら、無駄だぜ? お前らが追いついた時点で、この辺り一体の道は実際に事故を起こして封鎖している。たどり着けても少数で俺たちの脅威になりえないし、逆に俺たちを捕らえられるだけの人数がたどり着くには、どれだけ頑張っても後二、三時間はかかる。じゃなきゃ、こんな余裕かましてベラベラ俺が喋るわけがないだろ? もっとも、ほとんど俺たちの依頼主の入れ知恵なんだけどよ」
その言葉に、私は歯ぎしりをした。こちらが時間稼ぎをしているのも、その後の行動もほとんどバレている。
それにしても恐ろしいのは、この誘拐劇を計画したラルヴァ男爵だ。こちらの出方をすべて潰すよう、対策が万全な状態になっている。ソルヒとショルミーズが作ってくれた即席の監視網の存在は知らないはずなのに、その存在まで折込積みのようだ。
男は今まで数多に蹂躙してきたものたちへ向けてきたであろう残忍な笑みを浮かべて、こちらを見下ろす。
「どうした? やらないのか?」
「……何を、ですの?」
「かはっ! そう言ってる時点でわかってんだろ? そのガキの足の縄、解けてんだろうがよ。逃げな。十秒待ってやる。協力者から絶望させてから殺せって言われているし、依頼人からもそうするよう言われているからな」
「くっ! 走るわよ、アシュ!」
「うん!」
恐ろしいはずなのに、アシュは何も言わず私を信じて走り出す。彼の手を握り走る私の後ろで、男が本当に、一から数字を数え始めた。その声を聞きながら、私は全力で駆けていく。周りの男たちも動かずに、ただただニヤニヤしたまま動かない。絶対に私たちがここから抜け出せることはないと、そう確信しているのだ。その自信が、何よりも恐ろしかった。
……この子だけでも、アシュだけでも逃さなきゃ!
倉庫に満ちる悪辣な気配をかき消すように、私とアシュは出口に向けて走っていく。背後でまた、男が笑った。
「はーい、十秒経った。オラお前ら! 狩りの時間だっ!」
その声を皮切りに、倉庫中に殺意が撒き散らされる。もはや圧力を持ったかのような罵声を上げながら、男たちが叫びながら、私たちの背後から駆けてきた。
「大丈夫よ、お母さんがあなたを守るから」
顔を青白くしたアシュを鼓舞して、どうにか私たちは走っていく。それを、男たちが凄まじい勢いで猛追してきた。人間相手ではなく、獣相手に逃げているみたいだ。
死という単語が実感を持ち、こちらの命を散らそうと這い寄ってくる。
でも、もう少しで出口だ。
その距離、後十歩。
「あともう少しだよ、お母様!」
アシュの声が聞こえる。後九歩。
「頑張るのよ、アシュ!」
息子に答える。後八歩。
アシュが私の手を握る指に、更に力を込める。後八歩。
呼吸も忘れて、足を動かした。後七歩。
アシュの足がもつれた。後六歩。
倒れる前に息子を抱えて、更に進む。後五歩。
なんとかバランスを取ろうと、アシュが地面を蹴った。後四歩。
走る髪から千切れるように、流れ落ちた汗が後方に消えていく。後三歩。
入り口から、倉庫の外を流れる川のせせらぎが聞こえてくる。後二歩。
もう、出口だ。
後、一歩。
そこで。
私は、アシュを押し止めるように急停止した。
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