第36話
倉庫までたどり着いた時には、もう日が傾く時間帯となっていた。
緩やかに流れる運河の水面はオレンジ色に照らされ、非常に美しい。こんな時でなければ、アシュとお茶でも飲みながらゆっくり眺めていたかった。
……そうした日常を取り返すために、アシュを取り戻しませんと。
「奥様、そんなに身を乗り出しては見つかってしまいますよ!」
そう言ってショルミーズが、私を物陰の方へと押し戻す。
塗装が剥げ落ちたボロ倉庫の前に、常時男が二、三人で見回りを続けている。貴族所有のものならいざしらず、みすぼらしさすら感じるあの倉庫をあれだけの人数で守る意味がない。
それに、着ている服に私は見覚えがあった。馬車から出ようとしたアシュを掴んだものとあの見張りたちは、同じ上着を着ているのだ。
そしてそこにアシュを連れ去った馬車が停まっているのだから、もう確定と言ってもいいだろう。
「ソルヒが応援を呼んでいるのですわよね? その応援が到着するまで、時間を稼ぐ必要がありますわ」
「そうですね。二人で出来る範囲、という事になってしまいますが」
ショルミーズの言葉に、私もうなずく。
「どうにか見張りの注意を引ければいいのですけれど」
そう言って私は、周りを見回した。そして何気なく、ある考えを口にする。
「何か、注意を引き付けられる花はないかしら? たとえば、臭いに特徴がある、とか」
「花、ですか? でも、そんなきれいな花や草木はここには生えていませんよ? 奥様」
「『きれいな』花や草木、とおっしゃいましたわね? なら、きれいではない花や草木は、どうなのかしら?」
「臭いというのなら、いくつかありますよ。ただ、ここら辺には生えていないですね」
「……そう。現地調達できるもので解決出来るようなものがあればいいのでは? と思ったのですが」
「ですが、花や草木『でない』ものなら、なんとかなるかもしれません」
「ショルミーズ? それは、どういう意味ですの?」
「そのままの意味ですよ、奥様。花や草木に止まりにくる、こいつらに働いてもらいます」
そう言うとショルミーズが、視線を下に向ける。そこには葉っぱに乗る虫の姿があった。その虫は五角形の底を引き伸ばしたような形で、葉を食んでいる。
それを見て、私もその場から飛び退いた。
「こ、この虫は、ひょっとして、あの!」
「そう、あの虫です! 刺激しないでくださいね!」
言われなくても、そのつもりだ。この虫は私も自分の国で孤児たちと遊んでいる時に、何度も目にしている。
「その虫は外敵から身を守るため外部から刺激を受けると、激臭を発する液体を分泌します。もし手についたら、水洗いをしてもなかなか取れません」
「そうですわね。私も昔、孤児院の子供たちから一時的に近寄らないように言われたことがありますわ」
「この虫は種類が多くて、果実を食べるので害虫に分類されているものも多いのです。私なんて、何度庭仕事をしていてこいつらにやられたことか……」
「そ、それは災難でしたわね」
ショルミーズは本気で悔しそうにしているが、私にも彼がこの虫を使って何をしようとしているのか理解できた。
「この虫を使って、倉庫前の見張りの注意を引きますのね」
「はい。こいつらを集めて、やつらにぶつけます」
「でも、どうやって集めますの? 私、毎回嫌な思いをさせられた記憶しかありませんけれど。それにぶつけるにしても、見張りまで虫を持って移動すれば虫に刺激を与えてしまい、こちら側が激臭にさらされてしまいますわよ?」
「最初の質問の答えですが、この虫が乗っている葉っぱごと切って集めれば大丈夫ですよ。二つ目の質問の答えは、これから私が作ります。申し訳ないのですが、奥様には材料を集めるのを手伝っていただけませんか?」
「もちろん構いませんわ。何を集めればいいのかしら?」
「大きな長い枝を。そして頑丈な細くて長い葉を集めてください。あ、手を切らないように、気をつけて」
「わかりましたわ」
なんとなくショルミーズがやろうとしていることを察して、私は早速行動に移る。
といってもアシュが運び込まれた倉庫は川岸に植物が生えているため、枝も葉も探すのには苦労しない。
ショルミーズが虫取りをしている間に、私は集めた葉と葉を編んで、紐のように伸ばしていく。それが終わると、私は今度は小さな籠のようなものを葉で編み始めた。失敗してもいいように、複数組み上げていく。
戻ってきたショルミーズがそれを見て、関心したように声を上げる。
「私がやろうとしていることが、奥様にはおわかりに?」
「枝と葉を使って、竿を作ろうとしているのですわよね。そしてその竿を投げて、釣り針を遠くに飛ばす釣りの要領で、虫を一緒に飛ばしますの」
そう言いながら、私は枝と枝を葉で結んで長い竿のようなものを作っている。この先に、先程編んでいた草の紐を取り付け、その紐のもう一方の先端に葉の籠を取り付けるのだ。その籠の中身は、ショルミーズが取ってきた虫を入れ込む。中身が零れ落ちないよう蓋をするた、細長だけでなく横幅もある葉も摘んできた。
……釣りには餌用に虫を取り付けますけれど、今回は釣り針ではなく、虫だけでよさそうですわね。
私の考えが当たっていたようで、ショルミーズが手早く、それでいて慎重に草の籠に虫を詰めていく。それに入り切らなかった虫は、予備の方へと詰めていた。
「そういえば、よくこんな短時間で沢山の虫を捕まえてこれましたわね」
「私、目は良い方なんです。倉庫の入り口ぐらいであれば、多少暗くなっても人の手の動き、指の形ぐらいまではわかりますよ」
「それは凄いですわね! ところで、先程あなたたちがやっていたハンドサイン、教えてくださらないかしら」
「もちろんいいですけど、今ですか?」
「ええ、今です。といっても、一種類だけ。意味合い的には、『今だ!』とか、『ここだ!』というものでいいのですけれど」
「わかりました。そういう意味のものですと、こういうものですね」
そんな話をしながら、私たちは作業を進めていく。
二人で行っていたからか、準備はすぐに完了した。
今後の段取りを二人で話し終えた後、籠を取り付ける前に二、三度ショルミーズが枝の竿を振って、紐の軌道を確かめる。
「これなら行けそうですよ、奥様」
「それでは、籠を取り付けますわね」
ゆっくり籠に紐をくくりつけて、私はその場から少し後退する。
ショルミーズは私が下がったことを確認すると、一呼吸。そして助走をつけて、竿を倉庫の方へと振り下ろした。
……お願い、届いてっ!
私の願いを乗せて、紐は上空へきれいな孤を描く。そしてその孤が天に一番近づいたところで、紐と籠を結ぶ葉がちぎれた。
ちぎれた葉が宙を舞い、それを置き去りにするように籠が飛ぶ。虫が詰め込められた籠は、放物線を描いて茜空の下、倉庫前の見張りたちに向かって突き進む。
そしてそれが、男たちの足元に落下した。衝撃で籠の形が崩れ、蓋代わりに入れていた葉の位置がズレる。
突然飛んできた不審物に、男たちは警戒しながらも近づいていった。
「なんだ? これは」
「向こうから飛んでき、うっ、な、なんだ? この臭いは!」
「く、臭い! これはまさか、あの虫の臭いなんじゃ!」
騒ぐ男たちの死角から、私は倉庫の入り口へとたどり着く。ショミドーズが籠を投げつける時私が後方へ向かったのは、大回りして倉庫まで向かうためでもあった。
……待っててくださいませ、アシュ! 今すぐ行きますわっ!
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