第34話

 ……本当に、彼と同盟を結んでおいてよかったですわ。

 自分の言うことを、信じてくれる人がいる。そう確信できる人がいるだけで、今の私にはかなり心強かった。

 普通であれば警察に助けを求めるところだけれど、相手は男爵だ。完全に掌握できないとはしても、貴族社会のこの国で圧力ぐらいはかけれるだろう。たとえば、見つかった情報を一日遅れてあげさせる、とか。

 ……その時間の遅延は、もう致命的ですわね。

 今すぐ通信局舎の中へ入ろうとしたところで、私は歩みを止める。ユーリックブレヒトと話せる状況になり、私は少し冷静さを取り戻していた。

 ……今すぐにでも電話をかけたいところですけど、本当にそれをしてもいいのかしら?

 当然だがユーリックブレヒトは、まだアシュが誘拐されたことを知らない。そしてそんな公務に励んでいる彼のそばには、あのオスコと手を組んでいるトデンダーがいる。

 ……公務中だからと、ユーリックブレヒトの代わりにトデンダーが電話に出たら、私が電話してもその情報が全て握りつぶされてしまいますわ!

 どうしても直接ユーリックブレヒトに伝えたいと言ったとしても、彼に電話を代わってもらえることはないだろう。

 ではどうすればいいのか? と考える私の頭の片隅に、私の歩みを止める別の懸念事項があった。それは――

 ……本当にユーリックブレヒトは、前妻のジメンドレを殺しましたの?

 オスコに告げられた言葉が、私の脳裏になかなか落ちない、しつこい油汚れのようにこべり付いている。

 ユーリックブレヒトがそんなことをするはずがないと、頭の中ではそう考えている。かつてはアシュを殺すことを考えるほどの殺意を抱いたことがあったのだとしても、今の彼はとても人殺しをするような人には思えない。

 ……だってあの人は、冷たくはありましたけど、優しくないわけではありませんでしたもの。

 私はアシュとの仲を深めるきっかけとなった、息子を守るために傷ついた時のことを思い出していた。

 あの時確かアシュはよそ見をしていて、庭師であるショルミーズが乗る脚立にぶつかったのだ。そして落下した剪定バサミが私の右手を切り裂いたのだ。

 その後口が悪いメイドのソルヒが私の手当をして、そこにユーリックブレヒトが屋敷に帰ってきて、それで――

 ……アシュの学びの在り方について、議論をしたのですわよね。

 あの時はとても同盟を結べるような関係になるとは思っていなかったけれど、それでも彼はアシュが傷ついてしまわないよう、不器用なりに彼のことを考えていた。

 だから信じられる。

 彼が、ユーリックブレヒトがどれだけアシュを愛しているのか、知っているから。

 彼の優しさを、私は信じることができる。

 でも――

 ……逆に、優しいからこそ、あり得るのではありませんの?

 愛しているから。

 その優しさ故に、誰かに手をかけることが。

 アシュが決して傷つかないよう、経験則ではなく座学に押し込めるという、今考えると病気的なまでにユーリックブレヒトは自分の息子に対しては過保護であった。

 そんな彼が、もしアシュが誘拐されたと知ったら、果たしてどんな行動に出るだろうか?

 ……犯人を、八つ裂きにするのは私も全然賛成ですの。でも、それでアシュが傷つくのだけは避けなくてはなりませんわ。

 私たちの息子は、優しい子だ。そんな彼が、自分のせいで誰かが死んだと知ったら、どう感じるだろうか?

 誘拐犯を含め、首謀者のラルヴァ男爵を罰するのは絶対必要だとしても、それはアシュの心が傷つかないように行わなくてはならない。

 間違っても、彼の前で人を殺すような場面を見せるのだけは、絶対に避けたかった。

 ……ユーリックブレヒトには、できますの? 犯人たちに対する、そうしたギリギリの一線を超えないような報復が。

 私なら、恐らくできると思う。犯人たちは今すぐこの手で絞め殺してやりたいところだけれど、人を殺したことのない私はまだそれを実行する前に、一瞬躊躇する時間があるだろう。そのギリギリの一瞬を保てる、はずだ。

 でも、過去にすでに誰かを殺めたことがある人なら、どうだろうか?

 そのギリギリの一線を、躊躇なく超えていくのではないだろうか?

 たとえそうであったとしても、私はユーリックブレヒトに知らせるべきなのに、今すぐにでも彼に直接アシュの救出について相談すべきなのに、その方法を考えるために頭が回ってくれない。

 ……何をやっていますの、私は! 今はウジウジとそういうことを考えている場合ではありませんのにっ!

 頭を切り替えようと両手で顔を叩いていると――

「あれ? 奥様?」

 振り返ると、そこにはショルミーズとソルヒの姿があった。

 突然屋敷の使用人たちと鉢合わせしたので、私は狼狽する。

「ど、どうしてあなた方が、ここにいらっしゃいますの?」

「私は庭の手入れに使う道具や植える球根なんかを見に花の卸市場まで。他の国まで買い付けに行く人たちもいるんで、そうした方との意見交換も兼ねて出てきました」

「私も治療で使う薬なんかを見に。屋敷まで来てくれる卸業者の品も悪くねぇんですけど、流行り病なんかは現場に出て状況を見聞きするのが一番いいですからねぇ。大きい病院の見解も聞きてーですし。こーしてたまに自分の足で見て回ってんですよ。あ、決して屋敷の外にいる方がサボれるからとか、そういう理由じゃねーですからねっ!」

 どうやら、買付に来たところで、偶然私と出会ったらしい。

 しかし私は、どうしても彼らの言葉を素直に信じることができなかった。

 ……この二人は、オスコが手を回した私の追手かもしれませんわ!

 ダメだ。マズい。冷静になれたと自分では思っていたけど、予想以上にアシュが誘拐されたことで私は動揺しているようだ。

 同盟を結んだユーリックブレヒトのことすら信じ切ることができないのに、使用人の彼らを信じることなんて出来るわけがなかった。

「大丈夫ですか? 奥様」

「汗が酷いですねぇ。熱中症になっちまいますよ?」

 そう言って、心配そうにこちらに歩いてくるその動作、言動すべてが怪しく見えてしまう。

 そこでたまらず、私は叫んでいた。

「来ないでください!」

「お、奥様?」

「ほ、本当に大丈夫ですか? それに、一緒にサーカスを観に行ったボッチャンの姿もついていったオスコの姿も見えませんが、どちらに?」

「とぼけないで頂戴! あなたたちがオスコを中心に、アシュの誘拐を企てて実行したくせに!」

「ゆ、誘拐?」

「ボッチャンの、ですか? そりゃぁ大変じゃねーですか! すぐに旦那様に知らせなきゃ!」

「もう演技はいいわ! 今ユーリックブレヒトに電話をしても、彼のそばにはトデンダーがいる。あの

執事もグルなのは、わかってるんだから!」

 その言葉を聞いて、ソルヒは納得したように頷き、自分の顎を撫でる。

「ははぁん、なるほどねぇ。オスコたちが誘拐犯と繋がってるから、奥様は私たちも誘拐犯の一味だとお疑いなわけだ」

「ええぇ! わ、私たちは違いますよ! そんなたいそれたことできませんよ!」

「そうは言うがよ、ショルミーズ。奥様の立場で考えりゃぁ、私たちを信じられねぇのも無理はねぇぜ。だって奥様は、自分の息子を誘拐されてるんだからよ」

「じゃ、じゃあどうするのさ、ソルヒ!」

「なぁに、簡単な話さ。信じてもらえないのなら、信じてもらえる証拠を用意すりゃいい。奥様。ボッチャンを誘拐した奴らの特徴とか、馬とかの情報ってありますかい?」

 見た目的には男女逆なんじゃないかという口調の会話を聞いていた私は、メイドのソルヒにそう言われて怪訝な表情を浮かべる。

「馬車は、見ておりましたけど。でもソルヒ、何を考えておりますの? あなたに、アシュの居場所が見つけ出せるとでも」

 そう言うと彼女は、自分の口よりも悪そうな笑みを浮かべた。

 

「なぁに。単に私たちがサボりに屋敷の外まで出てきてるわけじゃねぇってことを、しょーめーさせて頂こーと思いましてねぇ」

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