第33話

 呼ばれた方に振り向くと、そこには走だした馬車の窓から顔を出すアシュの姿があった。

「アシュ!」

「お母様!」

 アシュはそのまま、馬車の窓から身を乗り出そうとする。だが彼の首元を、馬車の中から伸びてきた腕が掴んで中に引きずり込んだ。

「アシュ!」

 もう一度愛する息子の名前を呼んで、私は走る馬車に向かって駆けていく。

 何事かとこちらを振り返る人たちの視線も、全く気にならない。

 今はただ、この両腕でもう一度我が子を抱きしめたい。ただその一心で、私は足を動かした。

「誰か、誰かその馬車を止めて! 息子がさらわれたのっ!」

 そう言うが、スピードの乗り始めた馬車を止める手立てが人間には存在していない。

 自分が乗ってきた馬車で、アシュを追いかけられないか? という考えが、私の頭によぎる。しかしその考えを、私は頭を振って否定した。

 このアシュの誘拐劇は、オスコが仕組んだものだ。オスコが他の使用人と手を組んでいる可能性を考えると、私たちがこのサーカスに乗り付けた運転手もグルの可能性が高い。

 今はとにかく誰かの手を借りたい所だが、逆にハーバリスト家の人間に頼るのは危険。

 自分の嫁ぎ先なのに、夫以外頼れないという状況がもどかしい。

 ……馬車は、他に乗れる馬車はありませんの!

 辺りを見渡すが、残念ながら通りにそれらしい影はない。

「あの馬車を止めてください! お金は後から払いますから! 誰か! お願いしますわっ!」

 野次馬たちが戸惑いの表情を浮かべ、私がそれをかき分けて突き進む。

 その間に無常にも、アシュを乗せた馬車は、もうどう頑張っても人の足で追いつける距離ではなくなっていた。

 私は息も絶え絶えに、近くの建物によりかかる。壁に手を突いて体重を支えながら、額の汗を拭った。

 ……アシュ! アシュっ!

 荒い息を吐く度に、私の脳裏に愛する息子との思い出が浮かんでは消えていく。

 ……絶対に、絶対に、絶対に諦めませんわよ!

 考えろ、考えろと、私は何度も深呼吸をして、自分の心を落ち着かせる。

 ……アシュがどこに連れ去られたのか、まずはそれを考える必要がありますわ。

 そうなると必然的に、オスコたちと、そしてラルヴァ男爵の考えを整理する必要がある。

 ユーリックブレヒトからアシュを遠ざけたいオスコたち使用人と、アシュを手に入れたいラルヴァ男爵の思惑が一致して、この誘拐は起こっている。

 ……でも、そもそもそれが変ですわよね?

 衝撃的な事象の連続で頭が回っていなかったけれど、ようやく今回のそもそもの違和感に私は気づく。

 ……オスコやラルヴァ男爵は、こんな堂々とアシュを誘拐して無事で済むと思っておりますの?

 叱責や折檻すら厭わないと、それこそどんな罪に問われてもいいと言っていたオスコは、ひょっとしたらユーリックブレヒトのためのなら破滅しても構わないと自爆覚悟の行動の可能性もある。

 ……でも、ラルヴァ男爵は違いますわよね?

 何故なら男爵は、わざわざアシュの実の父親を確保しているのだ。

 ユーリックブレヒトも、ラルヴァ男爵がアシュの実の父親をどう使うのかは見当がついていなかったようだけれど、何かしら準備をしていたのは確かだ。

 深呼吸をしたからか、私はいつもの思考を取り戻す。

 人通りを避けるように歩きながら、私は更に自分の思考に沈んでいった。

 ……そしてラルヴァ男爵が、アシュを欲していたというのも、事実なのですわよね。

 そうでなければ、オスコとラルヴァ男爵が手を組めるはずがない。手を組めたから、アシュは誘拐されたのだ。

 そう。アシュは、誘拐された。だからこそ、先程の疑問に戻るのだ。

 ……アシュの実の父親を確保する手間をかけておいて、アシュ自身は強引に誘拐する? 公爵家の息子を?

 あり得ない。

 アシュはあの、ユーリックブレヒト・ハーバリスト公爵の息子。それを誘拐して、なんの罪にも問われないはずがないからだ。

 ラルヴァ男爵が罪に問われれば、裁きが下される。そうなった後は、当然アシュは私たちの元へ帰ってくるだろう。

 ……これでは、アシュを手に入れたいというラルヴァ男爵の目的が達成できませんわよね。

 それに、わざわざアシュの実の父親を手に入れるという手間が完全に無駄になってしまう。

 ……だとすると、ラルヴァ男爵はアシュの実の父親という手札を切るまで、無事でいられる算段を整えているということですわよね?

 それはつまり、このアシュの誘拐劇について罪を問われない方法を考えているということに他ならない。

 というか、この一連の誘拐騒動について、私という証人がいるのだけれども――

 ……私はオスコから彼女がラルヴァ男爵と手を組んでいることを聞いておりますけれど、その私以外、証人がいないということが問題ですわ。

 逆に、オスコたちはグルだ。私が下手な証言してしまえば、彼女たちが共謀し、こちらが嘘をついていると逆に断罪されかねない。

 たとえば、アシュの誘拐を指示したのが私だとでも言われたら、最悪だろう。むしろ、その様な裏工作が進んでいる可能性すらある。

 そのオスコはサーカスのテントの中で、『ラルヴァ男爵のお迎え』がやってきたと、そう言っていた。

 ラルヴァ男爵自身が誘拐に参加していないとしても、男爵の使用人が誘拐の手助けをしていたら、その使用人の主人であるラルヴァ男爵は責任を問われるはずだ。

 そこで私は、あることに気づいた。

 ……オスコは『ラルヴァ男爵のお迎え』とだけ言っておりましたけれど、ラルヴァ男爵の使用人がやってくるとは一言も言っておりませんわよね?

 そう考えると、ラルヴァ男爵が罪に問われない、ある方法が私の頭の中に思い浮かぶ。

 ……つまり、とかげの尻尾切りですわね!

 自分に仕えている使用人ではなく、たとえばアシュを誘拐するための男たちを金で雇ったのではないだろうか?

 もちろん、その男たちは捕まるだろう。だが捕まった後も自分に繋がらないよう口止め料を払っていたら、どうだろうか? もしくは逆らえないように、人質をとってもいい。

 ……そうなれば、ラルヴァ男爵が黒幕だと知られずにすみますわよね。

 それどころか、誘拐を指示したラルヴァ男爵が、誘拐犯たちからアシュを救出するという完全なるマッチポンプなシナリオまで考えられた。

 そうすればラルヴァ男爵は表向き、誘拐犯にさらわれた被害者を救出したという名目で、堂々と自分の手元にアシュを置けることになる。

 そうなれば、ラルヴァ男爵は大手を振ってアシュを囲い込めるだろう。アシュをハーバリスト家に返さず、誘拐時に受けたショックで息子の体調が優れないから移動させることが出来ないとでも詭弁を並べて、ずっと軟禁される可能性すらあった。

 ……冗談じゃありませんわよ、そんな事!

 考えられる中で最悪の状況だが、しかし同時に希望もある。

 時間だ。

 あの誘拐犯たちは、アシュを表向きラルヴァ男爵が管理しているような建物まで連れて行かないはず。もし男爵の屋敷に連れて帰りでもしたら、誘拐犯とのつながりがバレてしまうからだ。

 ……だとすると恐らく今頃、オスコたちがこの誘拐劇について貴族たちに、ラルヴァ男爵にも伝わるように騒ぎ始めている頃合いですわよね。

 そして満を持して、ラルヴァ男爵がアシュを救出する手はずとなっているのだろう。だが、すぐに救出とはならないはずだ。

 ……あまりにすぐ救出出来たら、どうしてそんなにすぐにアシュを連れ去った犯人たちの場所を知っているのかと、逆に怪しまれますものね。

 だからまだ、アシュがラルヴァ男爵の手に渡るまでに時間はある。

 自分の中でそう結論づけた所で、私は歩みを止めて顔を上げた。

 そこにあったのは、通信局舎と呼ばれるレンガ造りの巨大な建物。この通信局舎は各地の通信局舎と電話で繋がっており、通話が可能となっている。

 通信局舎はこの国の主要な業務を行う場所に建てられており、逆に言えば主要な業務を行う相手とは通話することが可能だった。

 そしてこの血筋を重んじるクロッペンフーデ大王国では、貴族が公務で働く場所が主要な業務という位置づけになっている。

 つまり――

 

 ……これで公務中のユーリックブレヒトと、会話することが可能ですわ!

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