第30話
……どういうことですの?
眼前の舞台では、いよいよこの演目が終盤に入っていることがわかる。
もはや的は頭上のリンゴだけでなく、ピエロの両肩にもリンゴが乗せられようと準備がなされていた。難易度的に頭にリンゴを置くよりも、格段に難易度が高い。
聞いていたアシュが参加する予定の演目の内容とは、全く異なっていた。
……どういうことですの?
先程感じた疑問を、再度私は思い浮かべる。
アシュは確かに、この演目へ協力するために連れて行かれたはずだ。
だがその協力している演目は、もうすぐ佳境を迎えそうな雰囲気すらある。それなのに愛する息子の姿は、この舞台上どこにも存在していない。
……何か、トラブルでもあったのかしら?
いや、何かあったに違いない。そうでなければ、この異常事態は説明出来ないだろう。
……もしかして、体調でも崩しましたの?
アシュの自分の望み通りサーカスの演目に参加出来るということで、気分はかなり高揚していたはずだ。貴族の社交界に出ているとはいえ、彼はまだ六歳。見知らぬ大人たちに囲まれる緊張感もあるだろう。
……だとしたら、ここでじっとなんてしていられませんわ!
そう思うのと同時に、私は息子に会うため席を立つ。
他の観客たちが舞台に夢中になっている中、一人アシュが連れられた控室へ続く通路に向かっていく。
舞台のパフォーマンスに対しての喝采が、背後から聞こえてくる。その声が大きくなれば大きくなるほど、私の焦燥感が刺激された。
やがて観客の姿は見えなくなり、誰もいない通路へと足を踏み入れる。
もはや足早に駆ける私の背中へ、歓声以外の声が投げかけられた。
「どちらに行かれようと言うのですか? セラ公爵夫人様」
振り返ると、そこにはメイドのオスコの姿があった。
私が飛び出してから、すぐに後を追ってきたのだろう。彼女は荒い息を吐きながら、こちらに視線を向けてくる。
「もうすぐ、アシュバルム様の出番かもしれないというのに」
「そうかもしれないけれど、あまりにも出番が遅すぎないと思わない?」
「私はサーカスに来るのが初めてなので、どういう順番となっているのか、どれぐらいの長さの演目になるのか、見当が付きかねます。いずれにせよ、もうすぐ出番なのでは? 席に戻りましょう」
「……だとしても、心配よ。もしアシュの体調が崩れてたり、何かトラブルが起こっていたらと思うと心配ですもの」
「心配し過ぎなのでは? それに、もしアシュバルム様の体調が優れないのであれば、必要なのは医者の力の方です。私たちが駆けつけたとしても、出来ることはありません。この規模のサーカス団ですし、医者も帯同しているでしょう。餅は餅屋といいますし、彼らに任せましょう」
「……たとえそうだとしても、私はあの子のそばにいてあげたいのです。それがあの子の母親としての義務だと思うし。それにアシュに何かあったら、ユーリックブレヒトにも申し訳が――」
「セラ公爵夫人様」
オスコが、私の腕を掴む。その分厚いメガネから、彼女がどの様な感情を瞳に宿しているのか知るすべはない。
私の腕を握るメイドの手に、僅かに力が込められる。
「アシュバルム様が舞台に上がった時、セラ公爵夫人様の姿がないと悲しまれます」
「オス、コ?」
「席に戻りましょう、セラ公爵夫人様。アシュバルム様の晴れの舞台を、台無しにするおつもりですか?」
「……どうしてそんなに、私を席に戻そうとするの?」
オスコの腕を振り払い、私はメイドと対峙する。
「あなた、何か知っているのですね?」
「……はて、なんのことでしょう?」
「とぼけないで! 思い返してみれば、最初からでしたわね。団員に連れて行かれるアシュに私がついていこうとしたのを、あなたは止めていましたわ!」
「それは公演中、アシュバルム様に恥をかかせないようにするためでございます。舞台上で母親同伴というのは、外聞も悪くなりましょう」
「ナイフ投げの演目をやっている間なら、ね。でも、控室についていくだけなら何も問題がないのではないかしら?」
「それは――」
「いえ、考えてみたら、他にもおかしなことがあります。あなた、どうしてアシュが最初に控室に通されると知っていたの? 座長はどこに連れて行くのか何も言っていませんでしたし、ましてやサーカスの団員がやってくる前だったというのに!」
黙り込んだオスコから、私は距離を取る。やがて彼女は、忌々しげに舌打ちをした。
「……やはり、悪知恵は働くようですね」
私の背筋に、悪寒が走る。
久々だった。
久々に感じた、オスコからまっすぐに向けられる悪意。
……今オスコから感じるのは、私が公爵家へ嫁いできた時に感じた、あの嫌な感じ。いえ、それ以上ですわっ!
「答えなさい、オスコ! あなた、何をしようとしていますの? アシュに何かあれば、ユーリックブレヒトも黙っておりませんわよっ!」
「構いません。全てはユーリックブレヒト様のため。あの方からどの様な叱責を頂こうとも、どれほどの折檻を受けたとしても、どれだけの罪に問われようとも、私はあの方のために尽くすのみです」
剣呑な気配を隠さなくなったオスコは、口角を釣り上げる。
「あの方は、変わられてしまいました。いいえ、変えられてしまったのです!」
呪詛のように言葉を吐きながら、オスコは眉を立てる。
「あの方は、ユーリックブレヒト様は私たち使用人にとっての英雄。その英雄が突然王族に充てがわれた悪女に、誑かされてしまった!」
「……ちょっと、悪女って私のことですの?」
「それ以外に、誰が該当するというのでしょう? まさかアシュバルム様を足がかりにあの方の懐に入り込むとは。それに気づけなかったのは、痛恨の極みです! ですが、まだ遅くはありません。あの方が、ユーリックブレヒト様がこれ以上変わられてしまう前に、私は手を打つことにしたのですっ!」
散々な言われようだし言い返したいことも沢山あった。
でも今は、私の事についてオスコと言い争っている場合ではない。
何故なら――
「オスコ。今あなたは、ユーリックブレヒトがこれ以上変わる前に手を打った、と言いましたわよね? それで、どうしてアシュを私から引き離すことと関係しますの?」
そうだ。今私にとって最も大切なことは、その一点。
「あなたの企みに、どうアシュが関係していると言うのです? 答えなさい、オスコ!」
そう言った私を、オスコは嘲るように笑う。
「おや? あなたにしては察しが悪いですね。先程申し上げたではありませんか。アシュバルム様を足がかりに懐に入り込んだ、と。それはつまり、ユーリックブレヒト様の中で、アシュバルム様の存在が大きくなりすぎたのが原因。ならば、その原因を取り除けば、ユーリックブレヒト様は以前のユーリックブレヒト様に戻られると、そう思いませんか? そして丁度いいところに、その引き取り手が現れた。ならば、私が取る行動は、一つだけです」
「……何を、アシュに何をしようとしておりますの? 引き取り手? それは、一体誰ですのっ!」
先程感じた悪寒の何百倍もの寒さに、私の全身に鳥肌が立つ。
背筋が一瞬にして絶対零度で凍らされてしまったかのような怖気に、知らず識らずのうちに私の唇は震えていた。
そんな私を見下ろすように、オスコの唇が歪に釣り上げた。
彼女は自分の内に秘めた憎悪を吐き出すように、笑いながらこう言い放つ。
「ラルヴァ・リエスカ・アッタクヤ男爵に、引き渡そうとしているのですよ。あの忌まわしいジメンドレの血を引いている、アシュバルム(クソガキ)をねっ!」
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