第27話

 懸命に伸ばした私の手はアシュに届くことなく、虚しく宙を切る。

 空を掴むのと同時に絶望を掴んだ感覚に、私は背中に氷柱を突き刺されたかのような悪寒を感じた。

 しかし――

 

「あらあら、危ないわよ。そんなにはしゃいでは」

 

 隣に座っていた貴婦人が、アシュの身を受け止めてくれた。

 自分の身に何が起こったのかまだ理解出来ていないのか、アシュはその金糸雀色の髪を持つ女性の白雪の様な瞳を、呆然としたように見つめている。

 だが私は、弾かれたように息子に近づいた。

「アシュ、大丈夫ですの! あの、お助け頂きありがとうございます! それから、本当に申し訳ありませんっ!」

「いえいえ。子供はこれぐらい元気な方がいいですから。あなたも、そう思いますわよね?」

「そうだね、スロー。僕らの息子も、これぐらい元気に育ってくれるといいんだが」

「息子ってぇ、僕のことぉ?」

 アシュを助けてくれた女性、スローの隣を見れば、一人の男の子を挟んで一人の男性の姿がある。

 今の会話から察するに、彼らは家族なのだろう。茶色い髪の旦那の方は一見気弱そうに見えるが、鶏冠石色の眼は優しく息子の方に注がれている。その息子の茶色い癖毛は可愛らしく、白い瞳は甘えるように自分の母親を見上げていた。

 三人とも仕立てのいい服を着込んでおり、それなりの立場にあると察せられる。

 ……私も特権で最前列のチケットを取ったんですもの。最前列でサーカスを観戦できるのは、必然的にそういう立場にある方に絞られますわね。

 そう思いながら、私は改めてスローたちに頭を下げる。

「重ねてお礼をさせてください。私の息子のアシュを救ってくださり、ありがとうございました。ほら、アシュも!」

「助けてくれてありがとうございました! それから、ごめんなさい。僕、今日サーカスを観れるのが楽しみで、はしゃぎすぎました」

「いえいえ、本当に大丈夫ですから」

 小首をかしげながら、スローは優しげに笑う。深窓の令嬢あらため深窓の夫人の胸元から、ペンダントが覗いていた。

「所で、アシュくんはいくつになるの?」

「はい! 僕、アシュバルム・ハーバリストっていいます! 今年で六歳になりました」

「まぁ! グラルよりも一つお兄さんなのね!」

「お兄ぃちゃん?」

 スローの息子であるグラルが舌っ足らずな口調で話しながら、アシュの方へ視線を向ける。身長もアシュより、グラルの方が一回りほど小さかった。

 お兄さんと呼ばれたためか、アシュがその場で改めて姿勢を正す。

 私は少し笑いながら、アシュの隣に腰を下ろした。その隣に、オスコが無言で着席する。

「ハーバリストというと、あなた達はあのハーバリスト公爵の関係者なのかな?」

「……失礼ですが、お名前も存じない方にお答えする必要性を感じませんが」

「ちょっと、オスコ!」

 スローさんの旦那へ冷たい声で返すオスコに対して、私は内心冷や汗をかく。

 確かに、ハーバリスト公爵が持つ権力に群がる連中も多い。警戒するオスコの気持ちもわかる。

 つい先日、私もユーリックブレヒトも、アーングレフ公爵から釘を刺されたばかりだ。

 ……でも相手はアシュを助けてくださった方なのですよ? ものには言い方というものがあるでしょうに!

 そう思っている間に、グラルの父親は息子の頭を撫でながら、苦笑いを浮かべた。

「おっしゃる通りですね。失礼いたしました。僕の名前はボルンと言います。本名はちょっと長いので割愛させてください。実は僕らは、観光がメインでクロッペンフーデ大王国に着ておりまして。次の予定があるので、サーカスの演目の途中に出なければならないのですが。ただ、この国に滞在中、よくハーバリスト公爵のお名前をお聞きするものですから。なんでも、内政だけでなく外交に関してもかなりやり手だとか」

「……なるほど。ユーリックブレヒト様の有能さは、国を超えてその名を轟かせているということですね。当然の結果ではありますが、流石でございます」

「もう、ユーリックブレヒトが褒められたからって、調子いいんだから……」

 思わず私は溜息を零すが、当のボルンは特に気にした様子もなくグラルの頭を撫でている。

 そんな彼の優しげな目が、アシュの方へと向けられた。

「アシュバルムくんは、サーカス楽しみかい?」

「はい! お母様と一緒に観るの、ずっと楽しみにしてましたっ!」

「じゃあ、僕とも一緒に観よぉ? お兄ぃちゃん」

 グラルがボルンの手をかいくぐり、自分の席から手すりに足をかけ、スローの膝の上を伝ってアシュの方へと向かおうとしている。

 一瞬、貴族連中が開く社交界での出来事が頭によぎった。ユーリックブレヒトの事を知っていたわけだし、アシュをきっかけにこちらに取り入ろうとしている可能性を無視はできない。

 ……アシュを変な事に巻き込もうとする輩は、私が許しませんわ!

 そう思うものの、私は改めて隣に視線を向ける。

 グラルはスローの腕に捉えられてジタバタ、するものの動きがゆっくり過ぎて全く抵抗になっていない。そんな彼の瞳には、単に年の近い相手に甘えたいという欲求しかないように、私には見えていた。

 ……アシュの方が一つ上ということは、グラルくんは五歳ということですわよね?

 五歳の子供に、そんな演技が果たしてできるだろうか?

 ……といいますか、そもそもこのサーカスを訪れるきっかけとなったのは、オスコですわ。

 そう思いながら、私はメガネを掛け直すメイドを一瞥した。

 それはつまり、公爵であるユーリックブレヒトの意思とは関係がなくこの予定が組まれたということだ。そしてそれは同時に、貴族連中の意思が入り込んでいないことを意味していた。

 ……そもそも、私がどのタイミングでこのサーカスの席を取るのかなんて、たとえ貴族であっても、それこそ王族であってもピッタリと当てることなんて不可能ですわよね。

 チケットを予約する時、確かに私は公爵夫人の特権を使った。だとしても、そんなに都合よく私たちの隣の座席を押さえれるものだろうか?

 ……もしそれが可能なら、このサーカス自体がグルという事になりますけど。

 だが先にも述べたように、このサーカスに来るきっかけを作ったのはオスコだ。ユーリックブレヒトに対して崇拝に近い信仰心を持っている彼女が、アシュを利用されて彼が不利な立場になる状況を作るとは考えづらい。

 それにこちらに取り入ろうとするのであれば、次の予定があるのでサーカスを途中抜けするとボルンが口にしていたのも不自然だ。

 本気でこちらに取り入りたいのであれば、このサーカス中こちらと席が隣になるという利点を生かさない手はない。

 そんな事を考えていると、グラルを抱えたスローが、少し困ったように顔を傾げた。

「ダメよ、グラル。そんな事しちゃ。お洋服が汚れてしまうでしょ?」

「でもぉ、僕、お兄ぃちゃんと一緒にサーカス観たい。隣で観たいよぉ」

「お、お兄ちゃん……」

 そう言って、アシュはむず痒そうに口元をモゴモゴさせる。

 普段私たちから子供扱いはされど、年上扱いはされないからか、そう言われるのが新鮮なのかもしれない。

 するとアシュは、今度はちゃんと丁寧に自分の席に座る。そして隣に座る私の袖を引きながら、上目遣いで口を開いた。

「僕も、グラルくんと一緒にサーカス観たいです、お母様……」

 ……そ、そんなつぶらな瞳で見つめるだなんて、反則ですわよラディ!

 こうされてしまえば親なんて弱いもので、コロっと息子の意見を叶えてやりたくなってしまう。

 ……といいますか、そもそも今日はラディの望みを叶えるためにサーカスに来ているのですわよね。

 ならば、多少は愛する息子の言うことを聞いてあげてもいいだろう。

 もし仮にスローたちとサーカスがグルなのだとしたら、私がこの席に座った時点で出来ることなんて殆どなかった。

 それに、貴族の社交界があんな調子なので、ラディはあまり同世代と接する機会がない。

 ……そういう意味でいいますと、そういったしがらみが全くない観光客の方と触れ合うのは、ラディにとっていい経験となりますわね。

 そう思いながら、私は愛する息子のために口を開く。

「すみません、スローさん。不躾なお願いなのですが、グラルくんとうちのアシュを隣同士の席にしていただけませんか?」

「え? いいんですか? この子、見ての通り少しお転婆な所があるのですけど」

「いえいえ、それぐらいなら可愛いものです。お転婆というのであれば、椅子からはしゃいで転びそうになるうちのアシュの方がお転婆ですから」

「そういうことでしたら……」

「やったー!」

「やったねぇ、お兄ぃちゃん!」

 満面の笑みを浮かべる息子たちを前に、私もスローもただただ微笑むしかない。

 かくしてスローの席とグラルの席が交換され、改めて互いに自己紹介を済ませた後、六歳の息子とそのひとつ年下の男の子が、隣同士でサーカスを観戦することとなったのだった。

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