第13話
こらえきれないとでも言うように、アシュは手にしたマクラにその顔を埋める。
「お父様は、お仕事でいつもそんなに家にいないし、オスコたちも、お仕事があるでしょ? 勉強を教えてくれる先生は、僕に教えるのがお仕事で、一緒に遊んでくれないし」
「……お友達は? アシュのお父様に連れられて、貴族同士のパーティーに出たりして、仲良くなったお友達は、アシュとお友達になりたいっておっしゃる方は、おりませんの?」
「いたよ。いっぱい。でも、友達は、いないの」
その言葉は、今まで私が聞いたアシュの声色の中で、一番固く、冷たいものだった。
アシュは両手に力を入れて、更に強くマクラを抱きしめる。
「みんなみんな、僕とは仲良くなりたいって、思ってないんだ。みんな僕の名前を呼びながら、みんなみんな、お父様の方を見ているんだ。僕じゃなくって、僕を通してお父様と仲良くなりたいんだ。そんな人と、僕、仲良くなんか、なれないよ。そんな人、友達なんかじゃ、ないよ」
その言葉に、私の頬が、人知れず歪む。
アシュの言葉で、今まで彼が経験してきたであろう風景が、私の脳裏に再現されたのだ。
……同じですわ。私も、お父様の威光に群がってきた貴族連中の醜さは、これでもかというほど見てきましたもの。
自分の存在意義を完全否定される、あの感覚。自分をその向こうにいる相手とつながるための道具としか見ていない、あの無機質な目線。ここにいるのに、いないとされるあの扱いは、十八歳になる私ですら大きく自尊心を傷つけられるのだ。
……それを、あんな仕打ちを子供が受けるだなんて、六歳のアシュが受けるだなんて、あっていいことではありませんわ!
だが、それが行われるのが、貴族社会なのだ。爵位が全ての奴らにとって、より高い位に近づき、自分が上り詰めるために、全力で心血を注ぐ。
それは文字通り、自分の血縁を、息子を、娘を、孫ですら、使えるものは、何でも使うのが、貴族連中なのだ。
……公爵家に自分の娘を嫁がせたい思う男爵や子爵たちは、大勢いるのでしたわね。
父に言われた言葉を脳裏に思い出し、私は吐き気をもよおした。その言葉が適用されるのは、何も私だけでは、私が嫁ぐことになった、ユーリックブレヒトに対してだけではない。
……その公爵家の一人息子である、アシュもそんな目にあっているってことですのね。
公爵家に取り入るため、自分の息子を、娘を、孫をアシュに差し向ける、欲望に顔を歪めた貴族連中のことを想像してしまい、私はまだ見ぬそいつらに、頭の中でつばを吐きかけた。
そんな私の隣で、マクラから決して顔を上げないアシュが、等々と言葉を紡いでいく。
「だから、嬉しかったんだ。僕を叱ろうとしてたんだろうけど、鬼ごっこってことにして、僕がしたいたずらの続きにしてくれて。大人げないなって思ったけど、本気で追いかけてきてくれて、その間、本当に僕のことだけ考えてくれていて」
「アシュ……」
「はじめて、だったんだ。お屋敷の窓を飛び越えてお庭にやってきたのは、本当にびっくりしたけど、本気で僕の相手をしてくれているって、お父様のことも関係なく、まっすぐに僕のところまで走ってきてくれて」
「アシュ」
「でも、でもね? びっくりしたの。お庭の植え込みのトンネルを抜けたら、セラさんの姿が見えなかったから、絶対逃げ切ったって、僕、そう思ってたのに。でも、セラさんは最後まで追いかけてきてくれて、僕を、ずっと、僕だけを見てくれていてーー」
「アシュバルム・ハーバリスト!」
私は無理やり、アシュが手にしていたマクラを引っ剥がした。
その下から出てきたのは、両目から等々と涙を流し、だらだらと鼻水を垂れ流す、みっともない、ただの子供の姿だった。
それは年相応の表情で、誰にもはばかる必要もなくて、無理して隠しながら誰かに話しを聞いてもらわなければならないようなものではない。
だから私は、彼のぐちゃぐちゃな顔を見ながら、こう言った。
「私の前では、泣きたいときは顔を隠さず、きちんと泣きなさい」
それが、子供というものだ。
それができないというのであれば、そんな、泣きたいときに子供が無理をしてしまうような状況ならば。
それはきっと、大人が悪いのだ。
だから私は、泣きながら私の胸に顔を埋めるアシュの頭を撫でながら、怒りが自分の口から溢れ出そうになるのを、なんとか押し留めていた。
……一体あなたは、何をやっているのです? ユーリックブレヒト・ハーバリスト!
心が先に歪んでしまったらそうするのかと、今日私は自分の夫になる人にそう言った。
でも、実際はどうだろう? 私にすがりつき、泣き声を上げるアシュの心は、歪むどころか、もう歪みきってしまう直前なのではないだろうか?
この子は、孤独なのだ。
彼の父親は理路整然としすぎて逆に融通が利かず、我が子を顧みるのではなく感情を廃した正論の枠に押し込めようとしている。
その父親の周りにいる使用人たちは、基本その父親に右に倣え。父親の顔色を窺うばかりで、その視線は彼の子供に向けられることはない。
そしてその子の周りに集まってくるのは、彼の父親に群がる害虫の如き貴族連中で、こいつらはもはや語る価値すらない。
……そんな状況で、子供が誰かとのつながりを求めようと必死に考えた結果があのいたずらなのだとしたら、やるせなさ過ぎますわ。
窓ガラスを割ったというのも、芋虫を服の中に隠したというのも、それら全てがアシュの悲鳴だったのではないだろうか? もう孤独に耐えられないと、誰か助けてという、慟哭だったのではないだろうか?
そう思い、私は改めて、アシュのことを優しく、それでいて強く抱きしめた。
「アシュ。もうそんな、誰かにいたずらしなくたっていいのです。これから私が、時間が許す限りあなたと遊んであげるから。あなたのお父様に怒られたって、いいえ、怒られるぐらい、全力で遊びましょう」
「ほん、とう?」
「ええ、本当よ。約束するわ」
そう言うと、泣きはらした顔で、アシュが私の方を見上げてくる。
「どう、して?」
「何がかしら? アシュ」
「どうして、セラさんは、僕にそんなに良くしてくれるの?」
まだ両の頬から流れ落ちる透明な雫を拭うと、アシュは再度私に問いかける。
「どうしてセラさんは、今日あったばかりの僕を、助けてくれるの?」
それは、既に今日何度も問われている疑問だった。
それに私は、勝手に体が動いただとか、そんな感じで明確な答えを口にしていなかったように思う。
……でも、今なら言えますわ。ええ、自信を持って、胸を張って、言い切れる答えが、私の中にありますもの。
だから私は、アシュの菫色の瞳をまっすぐに見つめながら、言葉を紡ぐ。
「だって私、あなたのお母さんなんですもの」
「お、かあ、さ、え?」
「ええ、そうよ。私は今日、あなたのお母さんになるためにやってきたの」
だからもう、寂しくないと、そう言うようにアシュの頭を優しく撫でる。
自分の故郷から嫁いできた自分が、この公爵家では一人ぼっちなんだと、そう思っていた。
でも、違ったのだ。この家には、既に孤独に苛まれた、小さな子供がいた。
私がこの家に嫁いできた理由はこの子と出会うためなんだと、この誰にも甘えることができない子供を、ただただ子供らしく振る舞えるようにすることこそ、自分がこの家に嫁いできた意味なのだっと、そう思えた。
だから私は、その決意を口にする。
「これからは、ずっと一緒よ? アシュ」
「お……か……おかあ……」
また涙が溢れ出し、しゃっくりで上手く話せなくなったアシュが、それでもどうにか言葉を紡ごうと、必死になって口を開く。それをただただ、私は優しく見つめていた。
そして、何度目かのチャレンジで、アシュは自分の言葉を、ちゃんと意味のある形で発することに成功する。
彼は私を見て、こう言ったのだ。
「お、母様っ!」
その晩、私とアシュは。
互いに泣きつかれた後、抱き合うようにして、眠りについたのだった。
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