第10話
立ち上がる私を、使用人たちが驚愕の目で見つめてくる。
最初に我に返ったオスコは、こちらを非難するように睨みつけてきた。
「セラ様! いくら将来の公爵夫人であれど、ユーリックブレヒト様を呼び捨てにするなど、何たる侮辱!」
「侮辱? 今この場で自らの尊厳を最大に侮辱されているのは、アシュですわよ!」
そう言うと私は、ユーリックブレヒトへ詰め寄るように歩き出す。
「さっきの言い方は、何なのです? せっかくアシュが自らの非を認め、謝れたんですのよ? 何故それを褒めて差し上げられないのです? 何故失敗から学んだことを共に喜べないのですか? 何故アシュが行動することすら咎めるのです!」
ユーリックブレヒトは、確かに言った。
余計な真似はするな、と。
周りを煩わせるようなことをするな、と。
では、その行動とは、一体何だ?
「そんなこと言われても、アシュにはわかりませんわよ! だって、やったことがないから、失敗したことがないから、誰かにそれはダメなのだと教わっていないのに、それを行わない振る舞いを求めるのは、強引で傲慢で、怠慢に他なりませんわよ! 行動をしなければ学べないことは、確実にございますわ!」
私の激情を受けたユーリックブレヒトは、絶対零度の瞳で私を見下ろす。
「経験則から得られるものがあるのは、俺も理解している」
そう言って私の言葉に賛同した後、その燃え盛るような色をした瞳に、強い意志の光が煌めいた。
「だがその結果、取り返しの付かないことが起こったら、どうなる? 失敗を肯定出来るのは、その失敗から学べるからだ。もしその失敗が致命傷なのであれば、次はないのだぞ」
ユーリックブレヒトは私の左腕を一瞥し、続いてアシュの方へ視線を向ける。
「失敗は成長の糧でもあるが、それ相応の傷を伴う。そしてその傷を負うことで、人は成長も出来る」
「それがわかっているならーー」
「だから、安全に傷を負えばいいと俺が言っているのが、わからんのか?」
そう言ったユーリックブレヒトの灼熱の業火のような赤い瞳は、その色とは裏腹に、どこまでも冷静で冷淡で冷血な感情を宿している。
「俺たち人間が負う傷は、失敗は、どれもほとんど先人たちが既に経験しているものだ。ならば何故、その体験を、知恵を学ばない? 座学で学べる失敗談など、いくらでもある。いたずらを何故してはいけないのかなんぞ、それこそ童話に山のように出てくる話題だろう。傷つくことも、同じだ。失恋小説を読めば、その一端をわざわざ自分が失恋せずとも垣間見ることが出来る。不条理小説を読めば、自分が理不尽に傷つけられることなくその状況を追体験出来るだろう。今回致命傷を負わなかったのは、ただ単に運が良かっただけに過ぎない。わざわざセラ嬢が、アシュバルムが本当に傷つかなくとも、致命傷を負う可能性にその身を差し出さずとも、学びを得られる方法はあると思うのだが? わざわざそんな危険で、非効率的な方法を選ぶ理由がない」
ユーリックブレヒトの正論に、私は叩きのめされていた。
……特に、運が良かっただけ、というのは、言い返せませんわね。
もし、あの剪定バサミが私の首に落ちていたら、アシュは一生物のトラウマを抱えることになっただろう。逆に私が間に合わず、あのハサミがアシュの首元へ落ちていたら、それこそ取り返しがつかない事態になっていた。
……でも、何か、変ですわね。ユーリックブレヒトの言葉に、どこか矛盾があるように思えるのですけれど。
そう思っている私の後ろで、先程私が想像したものをアシュも想像したのか、彼の赤みが差していた可愛らしいその顔を、今は青白くしている。
自分の息子のそんな様子を見て満足したのか、ユーリックブレヒトは踵を返そうとした。
「話は、終わりだ。今後アシュバルムには、追加で座学と読書の時間をーー」
「それですわ!」
私から視線を外したユーリックブレヒトの進行方向へ体を回り込ませて、彼を見上げながら口を開く。
「確かにあなたの言う通り、座学や読書で学べることは多くあります。そこは、素直に認めますわ」
「ならーー」
「ですが、それがわかっていながら、何故あなたはアシュにそれを課していなかったのです?」
私の言っていることがわからないのか、そこで初めてユーリックブレヒトは困惑げな表情を浮かべた。
「言っている意味がわからない。先程俺は追加で座学と読書をーー」
「だから、それです! 何故あなたは、アシュに追加で座学と読書の時間を課せられるようにしているのです? 逆の言い方をするなら、何故それだけの時間、アシュに自由に行動させる時間を与えているのでしょう? 初めからその時間をアシュから奪っていれば、アシュが致命傷を負うような時間をなくせたというのに」
そう、それが先程私が感じた矛盾の正体だ。
……それほどまでに、優しくアシュが傷つき、失敗するのを肯定しているのなら、今アシュが屋敷でいたずらを起こせる時間を、致命傷を負ってしまいかねない時間を許していることと、矛盾しますもの!
だからとでも言うように、私はもう一歩、ユーリックブレヒトへ詰め寄る。
「本当は、あなたもわかっているのではありませんの? ユーリックブレヒト」
「……何をだ?」
「人間は、それほど理性的に、完璧に生きられないということを、ですわ」
ユーリックブレヒトは改めて、私を真正面から見据える。それを私も、まっすぐ受け止めた。
「人間には、感情があります。だからこそ、時に誤り、そして、だからこそそれを超えていけるのです。そして互いに欠けているからこそ、互いの手を取り合う余地も生まれるというもの」
私は更に、ユーリックブレヒトへ詰め寄る。
「そもそも、アシュはまだ六歳の子供ですのよ? そんなに勉強漬けにされて、心が先に歪んでしまったらどうしますのよ! それにですわね、そんな理性的で完璧に大人も生きられないものなんですわよ。そうでなければ、あんな部屋を私にあてがったりしませんわよね?」
「……部屋? なんの話だ」
「申し訳ありません、ユーリックブレヒト公爵様。私どもの手違いで、本来お通しすべき部屋とは、別の部屋へ案内してしまいまして」
慌てたように口を開いたのは、頭を下げるオスコだった。
それを見て、私はわずかに鼻を鳴らす。
……やっぱり、あの部屋は、勝手に使用人たちが用意したものなのですね。
控えめに言って、私はユーリックブレヒト含めたこの公爵家に住まう人々に歓迎されていない。一方でそのユーリックブレヒトは今までの会話で分かる通り、理性的というか、論理的に物事を考える傾向にある。
……だったら、わざわざ私に苦痛を与えるという無駄な思考を、ユーリックブレヒトは省こうとするはずですわね。私の対応に頭を巡らせるより、通常の来客と同じく私を扱ったほうが、効率的ですもの。
息子のアシュに対してすら、あんな感じだったのだ。今日はじめて会う後妻に対してなら、ユーリックブレヒトはより自分の思考を私なんかに割こうとは、考えないだろう。
……全く、自分に使える使用人ですら感情に左右されているのだというのに、まだ六歳のアシュにそのような振る舞いを求めるのは、やりすぎですわよ。
そう思っている私の前で、ユーリックブレヒトは淡々とオスコに対して、別の部屋を私に用意するように告げる。
オスコはユーリックブレヒトへ深々と頭を下げて、足早に私の隣を通り過ぎた。
そこで私は、オスコにしか聞こえないよう、小声で話す。
「貸しにしておいて差し上げますわ」
それはもちろん、彼女たちの感情的で勝手な振る舞いで、ユーリックブレヒトの論理的な行動を邪魔したことだ。一瞬オスコは鬼のような形相でこちらを睨んだが、すぐに屋敷の方へと足を向けようとして、止まる。
「そういえば、アシュバルム様のお怪我の最終確認がまだでしたね。お手数ですが、私とともに屋敷へお戻りくださいませ」
「いた! そ、そんなに強く引っ張らないでよ、オスコ!」
「ソルヒも、何をぼさっとしているのです? あなたも戻るんですよ!」
「えー?」
「あ、私も戻るよ!」
ぶつくさ言うソルヒに、慌てた様子で走り出したショルミーズを引き連れて、オスコは屋敷の方へと戻っていく。彼女たちに手を引かれるアシュは一度こちらを振り向くも、そのまま屋敷の方へと戻っていった。
そして気づけば、この場にいるのは、私。そして、ユーリックブレヒトだけという状況になっている。
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