第9話

「ほいほーい、怪我人がいるって聞いてきたんだけど、って血出てるじゃん!」

「だから救急箱は必要だって言ったじゃないですか、ソルヒさん!」

 そう言って救急箱を抱えてきたのは、人を呼びに行った庭師だった。手にした救急箱を、ソルヒと呼んだメイドに渡すと、ソルヒはすぐさま私のそばにやってくる。

 背の低い彼女が座るよりも早く、私は口を開いた。

「私よりも先に、アシュの方を看てくれませんこと?」

「どーせここで出来る処置は、応急処置ぐらい。外傷があるやつからまずは手を付けさせてもらうよ」

 ツインテールにしたピンク色の髪をかき上げながら、ソルヒは茶色い瞳で私を一瞥する。軽薄そうな口調とは裏腹に、彼女はテキパキとハサミで私の服を切り取っていく。

 その様子を、心底心配した様子で庭師が見つめていた。

「私が不注意で落としてしまった剪定バサミで、怪我をされてしまったんだ。ああ、こんなことがユーリックブレヒト公爵様にしれたら、私は……」

「あー、そりゃ災難だったねぇ。で、運悪く、その下にいたのがーー」

「違うよ、僕だよ」

 ソルヒの視線が私に向けられたタイミングで、涙を拭い、鼻をすすったアシュが口を開く。

「僕が、悪いんだ。にわしさんにぶつかったのは僕だし、セラさんは、僕をかばったから、怪我しちゃったんだよ」

 その言葉にソルヒは一瞬私の腕に包帯を巻いている手を止めて、庭師の方へと顔を動かす。

「おいおい、どういうこった? ボチャンが謝るだなんて、私は夢でも見てんのかね? ショルミーズ」

「いや、私も驚いて、って違う! こんな不敬なこと、ユーリックブレヒト公爵様に聞かれたら!」

「大丈夫。僕が悪いって、全部お父様にせつめいするから。だからみんな心配しないで」

 そう言ったアシュを、ソルヒとショルミーズと呼ばれた庭師が改めて見つめ、そして今度は私の方へ視線を向ける。

「一体全体、私がいない間に、何をされたんですか? セラ公爵夫人様」

「本当だぜ。あのボッチャンからこんな殊勝な言葉が飛び出してくるだなんて、どんな魔法を使ったんだ?」

「……別に、たいしたことはしておりませんわ。ただ、良好な関係を築こうとしただけですもの」

「うん! 僕、ちゃんとセラさんと仲良くなったよ! 今度は本当に、仲良しのしるしがあるのっ!」

 そう言ってアシュは、甘えるように私に抱きついてくる。数時間前までは小憎たらしいと思っていたこの子の体温を、今は愛おしいと思える自分の心境の変化に私自身戸惑っていると、傷の手当を終えたソルヒが何やら面白そうなものでも見つけたように、笑いながら何度もうなずいていた。

「なるほど、なるほどー。身を挺してボッチャンを庇って、しかもこんなに素直にさせちまうとは、今度の奥様は、ひょっとすると、ひょっとするかもなぁ」

「なんの騒ぎですか?」

 そう言って現れたのは、メイドのオスコだった。彼女は私たちの状況を一瞥すると、忌々しげな表情を浮かべる。

「ユーリックブレヒト様の言葉を、覚えていらっしゃらないのですか? くれぐれも面倒事は起こすなと、そうご命令されていたはずですが」

「面倒事? それはこの子の安全を蔑ろにすることも入っているのかしら?」

 私がそう言うと、こちらに抱きついているアシュに対して、オスコはわずかに目を細める。

「……なるほど。小さい子を謀ることから始めましたか。姑息な手を」

「おいおい、オスコ。そりゃ言い過ぎってもんじゃねーの? この人はただボッチャンを庇っただけなんだからよ」

 そう言ってソルヒは片付け終えた救急箱を手に、立ち上がる。そんな彼女へ、オスコは強い視線を向けた。

「……ソルヒ。あなたは、一体どちらの味方なのです? まさか、ユーリックブレヒト様から受けたご恩を忘れて、この女につくつもりですか?」

「いやいや、そういうつもりじゃねーけどよ」

「なら、どういうつもりでーー」

 

「これは、どういうことだ?」

 

 オスコの言葉を遮ったのは、重く、そして冷たい声だった。

 この場にいる全員が、その声の持ち主の方へ視線を向ける。

 そこに立っていたのは、私の夫。

 ユーリックブレヒト・ハーバリスト、その人だった。

 公務から戻った彼はこの世界全てを睥睨するかのように、私たちへ視線を向ける。そして、再度同じ言葉をつぶやいた。

「これは、どういうことだ?」

 そしてその眼光は、傷を負った私の左腕に注がれた瞬間、その強さを増す。

「やってきた初日で面倒事を起こすとは、セラ嬢は俺の言葉を聞く気はないと、そう理解してもいいのか?」

「違うよ、お父様!」

 そう言ってアシュは、私を守るように、ユーリックブレヒトに向かって口を開く。

「僕が、悪いんだ! いたずらをして、ハサミが落ちてきて、それをセラさんがかばって、それで怪我しちゃっただけなんだ。だから、悪いのは全部、僕なんだよお父様っ!」

「セラ、さん?」

 そうつぶやいたユーリックブレヒトは、一瞬だけ動揺した表情を浮かべた。ような気がしたのだけれど、瞬きした次の瞬間には、それが幻だったのかと思えるほどの、冷たい表情に戻っている。

 そのユーリックブレヒトに向かって、私は口を開いた。

「私のことはどれだけ罵ってくれてもいいから、この子が本当にどこも悪くないか、先に看てもらえないかしら? 多分、大丈夫そうですけれども、今は見た目でしかアシュに傷がないことしかわからないですし」

「……アシュ?」

「あら? いけないかしら? この子も特に文句を言わないようだから、そう呼んでいるのだけれど」

 そう言ってアシュの頭を撫でると、彼はくすぐったそうに笑う。それを見たユーリックブレヒトの眉間が、わずかに動いた。

 そして一歩、ユーリックブレヒトはアシュの方へ近づく。

「いたずらをしたというのは、本当か?」

 その言葉に、アシュの顔が歪む。彼は言っていた。芋虫を見た人は皆オスコのような反応をする、と。

 だが、その例外があった。

 私と。

 そして、ユーリックブレヒトだ。

 ……でも、そのユーリックブレヒトは、アシュが自分にいたずらをしたことすら気づいて、いえ、いたずらだとすら、思っていなかったんですのね。

 歪んだ表情をすぐに引っ込めて、アシュは改めて、ユーリックブレヒトの顔を見上げる。

「……うん。それに、今日だけじゃないんだ。今まで、僕、ずっとお屋敷でいたずらをしててーー」

「あまり、余計な真似はするな」

 遮るようにして放たれたその言葉に、アシュの表情が固まる。

「使用人たちには、各々仕事を割り振っている。あまり周りを煩わせるようなことをするな。自分の役目を、もっと自覚しろ」

「……はい、ごめんなさい。お父様」

 素直に謝るアシュに、オスコは驚いたように目を見開いた。ソルヒたちが言っていた通り、こんなに彼が素直になったことは、今まで一度たりともなかったのだろう。

 だが、その父親であるユーリックブレヒトは、そんな彼を、ただただ冷淡に見下ろしているだけだった。その視線に耐えきれず、アシュは視線を下に向ける。

 その表情が寂しそうで、それでいて泣き出しそうになっているのを見た瞬間、私は思わず立ち上がっていた。

「ちょっと、ユーリックブレヒト! もう少し、言い方などいろいろあるでしょうにっ!」

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