第8話

 剪定バサミの刃の部分は、四十五度ほど開いた状態で庭園の地面に突き刺さっていた。地面に刺さったのは片方の刃先のみで、その刃先は全体の四分の一ほどその刃を土の中にめり込ませている。

 一方、刺さった方とは別の、もう一方の刃先は、その刃を真っ赤に染めていた。

 血だ。

 人間の血が刃面を汚し、ポタリ、ポタリと、その刃先から血が垂れていき、庭園の地面を朱の色で汚している。その朱の色を、もう夕日の色となった太陽が、どこかぼんやりと照らしていた。

「大丈夫ですかっ!」

 剪定バサミを落とした庭師の焦る声が、どこか遠くから聞こえたような気がした。彼はアシュバルムにぶつかられたためこちらの近くにいるはずなので、遠くから声が聞こえたというのは、私の錯覚なのだろう。意識が朦朧としているので、そう感じてしまっただけなのだ。

 庭師は剪定バサミで左腕を切り、その服を血で汚している人物に駆け寄ると、再度焦燥感を滲ませた声を上げる。

「大丈夫ですか? セラ公爵夫人様!」

「……ええ、大丈夫よ」

 私は傷ついた左腕の痛みに顔を歪めながら、どうにか体を起こすことに成功する。そして眉をひそめながら、自分の右手に抱えている、アシュバルム・ハーバリストが無事であることを確認すると、安堵のため息を吐いた。

 ……よかった。見たところ、傷は多少擦りむいたぐらいですわね。

 アシュバルムの危機に叫んだ私は全速力で庭園を駆け抜け、頭から飛び込むような形で、彼に覆いかぶさったのだ。

 結果として、剪定バサミの落下経路にいたアシュバルムとの間にどうにか私の左腕が入り込み、彼が傷を負わずにすんだ、というわけだ。

 ……まさに、危機一髪でしたわね。

「誰か、傷の手当をできる人間を呼んできます!」

「ええ、お願いしますわ」

 そう言って走り去る庭師を見送ると、私はアシュバルムに向かって問いかける。

「大丈夫ですの? アシュ。痛いところはありませんこと?」

 外見だけではわからない体の不調があるかもしれないと、私はアシュバルムを立たせて、安心させるようにできるだけ優しい声色で問いかけたつもりだった。

 しかし、当のアシュバルムは、困惑に揺れる瞳で私を見つめた後、小さな声でこうつぶやく。

「どう、して?」

「ん? 何がですの?」

「どう、して、僕を、かばった、の?」

 ヒック、としゃっくりを吐いて、アシュバルムはまるで初めて自分よりも大きい動物を見たときのような、こんな存在がいることに衝撃を受けているような表情で、こちらを見つめてくる。

「自分が、傷つくのに、どうして? どうして? 僕が、悪いのに。いたずらした、僕が悪いのに、どうしておばさんは僕をかばってーー」

 アシュバルムが言葉を続ける前に、とうとう私の堪忍袋の緒が切れた。

 夕暮れに沈みそうになっている庭園中に、私の怒号が響き渡る。

 

「自分が悪いことをしたとわかっているのなら、何故最初にごめんなさいが言えませんのっ!」

 

 そうだ。私は、怒っている。

 おばさん呼ばわりされたことも業腹だが、それ以上に、私はアシュバルムが、自分自身の罪を自覚していたことに、大層腹を立てているのだ。

 ……人間ですもの。誰だって、そうしたくなくとも、誰かを傷つけてしまったりすることも、それはあるでしょう。

 いわゆる、不可抗力というやつだ。悪意がなくとも、むしろ良かれと思って行動したとしても、相手を傷つけて、余計なお世話だと非難を受けることもあるだろう。

 だからこそ、その後が肝心なのだ。

「誰かを、不注意で嫌な思いをさせてしまうことだって、あるでしょう。これぐらいなら許されると思い、取った行動が、誰かを傷つけてしまうことだって、あるでしょう。でも、だからこそ、だからこそそれを自分が自覚したとき、自分が悪いとわずかばかりでも感じたのであれば、自分の行いを後ろ暗いと思ったのであれば、その気持をどうして口に出さないのですかっ!」

 それが、最初の一歩なのではないだろうか? 誰かを思いやるという、良好な関係というものを構築するための、最初の一歩。一つずつ進めるための、変えていくための、大きな一歩なのだ。

 だから私は、改めて口を開く。

「ごめんなさい、アシュ」

「……え? なんで、あやまる、の?」

「私が、あなたを理解する会話の時間を惜しんでしまったからですわ」

 おばさん呼ばわりされたこともあり、私はかなり頭に血が登っていた。あれこれとアシュバルムのことを頭の中で考えてみたけれど、本当のことは、本当の彼自身のことは、彼に聞かなければ、わからないのだ。

 だからーー

「ごめんなさい、アシュ。あなたのことを、知ろうとしなくて。あなたが何を考えているのか、聞こうとしなくて。大人気なく追い回してしまって、ごめんなさい。ごめんなさいね、アシュ」

 浅黒いアシュの髪を撫でながらそういう私を、彼は両目を見開いて見つめてくる。

「おばーー」

 そこまで言いかけてアシュは首を振り、もう一度その美しい菫色の瞳に、私の顔をいっぱいに映し出して、口を開いた。

「セラ、さんは、セラさんは、どうして、そんなに、すぐにあやまれるの?」

 その言葉に、私は思わず苦笑いを浮かべた。

「……私だって、こんなにすぐに自分の非を認められたのは、初めてでしてよ」

「なら、どうして今日は、すぐにあやまれたの?」

「そうですわね……。きっと、後悔するよりも、反省することの大切さを、思い出したからですわ。あなたは、どうですの? アシュ」

「え? 僕?」

「ええ、そうですわ。悪いことをしたと自覚しているあなたは、それを後ろ向きに悔やんで、そして、そのままにしておきますの? ずっと、悔しい思いを一人で抱えて、その場に留まっているのですか?」

「ぼ、くは……」

 そう言ったアシュの濡れる瞳は私の顔から視線を動かし、同じく血に濡れた、私の左腕に注がれる。

 幸いにも、刃先は私の腕をそこまで深く傷つけなかったみたいで、もう血は止まろうとしていた。だが服に染み出したその赤は決して消えることなく、ただただその場にあり続ける。

 それはある意味、私がアシュを庇って負った名誉の傷のように見えるのかもしれないが。

 アシュのいたずらがなければ、負う必要のなかった傷跡だ。

 それを、改めて自覚したのか。

 アシュの唇が、震える。

 ヒッ、と、短い悲鳴のような声を上げて、しかし私の傷口から決して目をそらさず、アシュはため息をするかのごとく、言葉を漏らした。

「ごめん、な、さい」

「……今のは、何に対して謝ったんですの?」

「ぜんぶ。僕の、ぜんぶ」

 私に頭を撫でられるがままに、アシュは紡ぐ言葉の音量を上げていく。

「ごめん、なさい。お屋敷で、いたずらをして、ごめんなさい。窓ガラスを、割ってしまって、ごめんなさい。芋虫を服の中に隠して、ごめんなさい。オスコ、ごめん。ごめん、なさい。騙して、芋虫、渡して、ごめんなさい。逃げ回って、にわしさんにもぶつかって、ごめんなさい。セラさん、ごめん、なさい。本当に、ごめんなさい。こんな、傷、いたい、いたかった、でしょ? ごめん、本当に、ごめんなさい。セラさんを、きずつけて、ごめんなさい。僕、悪い子で、悪いこと、いっぱい、いっぱいしてきて、ごめ、ごめんな、ぜらざん、ごめ、ごめんなざぁぁぁいいいぃいぃぃぃ!」

 最後の方は声にならず、獣のように泣き喚きながら、アシュは私の腕の中で涙を流す。

 それを優しく抱きしめて、震える背中を撫でながら、私も彼に、言葉を投げかける。

「大丈夫。大丈夫ですわ、アシュ。一つずつ、変えられるところから、変えていけばいいのです。一歩ずつ、一歩ずつ、進んでいけばいいのです。私も、あなたも」

 自らの罪を告白するようなその言葉を漏らしたところで、こちらに向かってくる足音が聞こえてくることに気がついた。

 庭師が呼んだ人たちが、駆けつけたのだ。

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