夢の鳥かご
いつき
第1話
永遠に完成されない物語がある。
作者がやる気をなくしてしまい、執筆途中で投げ出されてしまった作品。プロットはほとんどできあがっているのに、本文になると思ったようなできにならず、自分自身で失望してしまった作品。
それがどんなに素晴らしい物語でも、公開されない限り、誰にも読まれることがない。誰の心も動かすことができない。
まるで鳥かごの中にとらわれた鳥のようだ。
そんな死んだも同然の物語の種を見るたびに、もしもこの物語を飛び立たせることができたらと思う。鳥かごから出してあげられたらと。私にその力があったらよいのに、と……。
「また、完成しなかったんですか?」
私はあきれ顔で、ぼろいアパートの一室に投げ出されたノートを拾った。パラパラと中身をめくると、そこには文字がびっしりと記されている。
まだ読めない文字も多い。筆跡も所々殴り書きのところがあって、読みにくい。
人に見せるようなモノではない。それは、小説のプロットだった。物語の設計図である。
部屋の主である史織さんは、中学三年の私より一回りお姉さんの高校生。自称、未来の大作家であった。
お姉さんは髪をぼさぼさにしながら、デスクに突っ伏していた。あたりには印刷した紙がくしゃくしゃになって散らばっている。
執筆に失敗したときの光景であった。
「いやね、考えているときは楽しいのよ。でも書くのってすみちゃんが思う以上につらいことなのよ! ほら、旅行だって、プランを考えている時が一番楽しいじゃない」
「…………」
私は黙々と小説のプロットを読み込んでいく。
「こんなにも面白いのに……」
私は涙を流していた。
プロットがあるからには、本文があるものだ。しかし、お姉さんは一作として、作品を完成させたことがなかった。
だから、読んでいる物語は、私以外の誰にも触れることがない。誰の心も動かすことができない。
こぼした涙は、物語の内容に流した涙でもあり、この作品が完成しなかったことに対する悔しさからの涙でもあった。
私はノートを閉じると、背負っていたリュックを開けた。史織さんの机の上にお弁当をのせる。
「はい、いつものです」
「ふあぁ、いい匂いがする。いつもありがとねぇ」
お弁当箱を開けたお姉さんは、目をキラキラとさせながら、
「やっぱりすみちゃんのお弁当はいつもかわいいね」
彼女は親元を離れて、一人暮らしをしていた。
史織さんは家事が絶望的にできない。当然ながら、自分で食事も作ることもできない。
お姉さんとの出会いは、彼女がお腹をすかせて道ばたで倒れ込んでいるところを、たまたま通りかかった私が救ったことがきっかけだった。
それ以来、私は休日や放課後にこうして家事の手伝いに、史織さんの家におとずれている。
報酬はお姉さんの書く小説、もとい、物語の種だった。
一作も完成したことがない。その時点で、未来の、という枕詞がついていたとしても、作家を名乗ってよいものではない。
それでいて、彼女は作家になるから就職はしないのだ、とほざいている。
他の人が史織さんをみたら、人間のくずだと、出来損ないだというかもしれない。
それでも、そんな人間失格のお姉さんの家にわざわざ入り浸るのは、彼女が書く物語のアイデアが、心から面白いと思えたから。
それと……、
「お姉さんは極悪人です」
「うぇぇ、なんでよう……、そんな涙流してうれしそうな顔して」
史織さんは、お弁当をむさぼりながら言う。
「だからです。なんで完成させないんですか!?」
「書けないの……」
「じゃぁ、なんで諦めないんですか」
「それは……、すみちゃんが読んでくれるから?」
「私は、ちゃんと完成されたお話が読みたいです」
「うぅ。ごめんね。頑張るから。頑張るけど、期待しないでねぇ」
震える声で言う史織さん。今にも泣き出しそうな様子を見て、
「ごめんなさい……。待っていますから」
と、その肩を抱いて言った。
お姉さんを一人にすることができないと思ったから、私は彼女に寄り添うことを選んだ。
初めて会った日、お姉さんはボロボロだった。
お腹をすかして、死にかけだったのを、私が見つけたのだ。私が、たまたま持参していたお弁当を口にした彼女は、泣いていた。
心も死にかけていたのだ。
あのとき彼女が語った言葉を、今でも鮮明に思い出せる。
――おまえには無理だってさ。特別な経験がなければ、才能がなければできないって……。芸能人になれっての? アイドルになって知名度あげてから書けっていうの? 生活していくことができないからって、そんな理由だけで夢奪っていいのかよ!
泣きじゃくりながら、そのとき中学生の私にすがりつきながら彼女は言った。
彼女は両親から、夢を否定する言葉を、何度も何度もかけられたという。それは、彼女をむしばむ呪いの言葉となった。作品を完成させられない呪いである。
一人暮らしを始めた今でも、その呪いは効果的に彼女をむしばんでいる。
お姉さんの物語を、外に出してあげなければいけない。もっとたくさんの人に読んでもらうべきだ。それほどまでに、心おどる物語なのだから。
家路につく中で、今日読んだ物語のプロットを思い返す。
それは、一人の魔女の物語だった。主人公は魔女なのに魔法が使えなかった。かつて空を飛んだときに事故で落ちてしまい、大けがを負ってしまったのだ。そのことがトラウマとなって、彼女は空を飛ぶことをやめてしまう。
魔女には、唯一無二の親友がいた。
彼女は魔女と同い年の少女だった。大けがを負った時に居合わせ、一心不乱に介抱したことがきっかけで、二人は仲を深めることになる。
魔女と親友は、まるで恋人のように、一つ屋根の下で生活した。
空を飛べなくとも、魔女は幸せだった。大切な人がいつも傍にいてくれたから。
しかし数年後、魔女の親友が病を患ってしまう。遠い異国の薬がなければ治ることがないと言われている、難病であった。
親友は、医学に精通しているが故に、自らの死を悟っていた。どうか最後の時まで、と、魔女に看取ってくれるよう願った。
だが、魔女は首を振る。子供のように泣きじゃくりながら、彼女は言う。
あなたが私を救ってくれた。それは、怪我を治してくれただけじゃない。飛べなくなった私の心も救ってくれたんだよ。
迷いはなかった。親友がいない日々など、考えられなかった。
その日のうちに、魔女は旅立つ。
最初は自分の足で走り、馬車を使い、船を乗り継いで、しかしそれではあまりにも遅かった。
このままでは、親友の命が尽きてしまう。
魔女は再びホウキに乗ることを決意する。
途中何度も落ちて怪我をした。満身創痍になりながら、何度も何度もホウキにまたがった。
その末に、彼女はついに親友を救うことに成功し、物語は幕を閉じる。
物語を読んだ私は、この魔女はお姉さんのようだと思った。
このままでは、お姉さんは魔法を使うことができない。では、私は、魔女の親友のように、お姉さんを待つことしかできないのだろうか。
そんなのは、絶対に嫌だった。
私には文才なんてない。お姉さんの物語を、小説として完成させるだけの力はない。
家が裕福なわけでもない。
当然コネなど存在するはずがない。
「お姉さんにしてあげられることって、何……」
史織さんは、私の作った料理を食べるごとに、それだけで満足なんだよという。
「それじゃ、だめなんですよ……」
○
宿題で、将来の夢について、作文を書きましょうと課題が出されたことがある。
女優。お嫁さん。YouTuberなどなど、クラスメイトのみんなの回答は、現実感のあるモノから、叶うわけがない壮大な夢まで、様々だった。
私は、あらかじめ用意していた回答を迷うことなく書き込んだ。
授業の合間の休憩時間に、解答用紙をのぞき見た友達は、
「料理人かぁ、すみちゃんらしいね」
「すみちゃんの唐揚げおいしいもんねぇ」
「うおい、よだれ垂らすな。あとで一口分けてやるから、昼まで我慢しなさい」
よりかかる親友を押しのけながら、私は心の中で呟く。
本当の夢なんて、書くわけないじゃんか。
心からの願いを書いて、本気だって思われたらどうする。
幼いうちだったら、みんな夢を応援しているふりをするだろう。だけど、もう少ししたら高校生だ。就職が近くなって、そうしたら手のひら返して、夢なんかみるなっていうのだ。
史織お姉さんの例を見るまでもない。世の中には、こうあるべきだって規範があふれている。そこからあぶれる人を、強引に戻そうという引力が常に働いている。
――こんなに料理が上手なら、きっと良いお嫁さんになれるわね。
――クラスの男子も、黙ってないんじゃないか。
私の両親も、ことあるごとに、そんな台詞を口にした。
あなたのためよ、おまえのためだ、と言いながら、心の底では自分の望む道に追い込もうと思っているのだ。
夢を持つのが怖かった。
夢を壊されるのが怖かった。
結果、自分が何ものかわからず、無難な道を突き進もうとしていた。
そんな自分が嫌だったから、高校生になったら好きなことを始めようと思った。
だから、私が進路として選んだのは、部活動が盛んで、運動部から文化部まで幅広く存在する高校だった。
お姉さんと出会ったのは、彼女が通っていた高校のオープンスクールでのことだった。
その日、昼食が提供されることを知らず、私は嬉々としてお弁当を作っていた。
出された昼食をこばむのも忍びなく、軽くない荷物を背負って憂鬱な顔で帰宅していたときだった。
史織さんは、痩せこけた顔で、うつむきながらバス停のベンチに座り込んでいた。
一切の気力が感じられなかった。
バスが来ても、彼女は乗り込もうとしなかった。
周りの人は、無関心な様子で、バスに飲み込まれていく。
知らない人に近づいてはいけないと、何度も教え込まれたこともあって、私も一目見たときは、関わらないようにしようと思っていた。
だけど、乗車口に近づくごとに見えてしまうのだ。
――泣いているんですか?
身長の低い私だから、史織さんの流した涙は、どうしようもなく眼に映り込んでしまった。
――あの、お腹すいているなら、食べます?
お弁当という鍵がなければ、私とお姉さんはつながらなかっただろう。
彼女がむさぼるように食べたお弁当の感想は、おいしいでもなく、
――かわいいな……。
まるで私自身にかけられたかのように、お姉さんの言葉は私の胸を躍らせた。
お姉さんの小説を初めて読んだのは、ボロボロだった彼女を高校の寮に送り届けた時だった。
雑然とした部屋。あちこちに、開きっぱなしのノートや、プリントアウトした紙束が散らばっていた。
お弁当を食べてすぐに体力が戻るわけでもなく、まだまともに歩けない史織さんを、私はベッドに横たえた。
――なんなんだろ、これ。
否応なく目に飛び込んでくる、大量の文字の海に、私は興味をそそられた。
お姉さんに尋ねようにも、意識が明瞭でなかったから、聞くこともできなかった。
――少しくらい、いいよね……。
手持ち無沙汰だったこともあり、私は一冊を手に取った。
そこからページをめくる手は止まらなかった。
面白さに、胸の鼓動が止まらなかった。
気づけば、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
読書感想文の課題図書くらいしか読書経験がなかった私にとって、お姉さんの書く物語は衝撃以外のなにものでもなかった。
霧で覆われた世界が、一瞬で晴れ渡るような感覚だった。
だから、こんな素敵な物語を書いた作者と、お姉さんの姿が、あまりにも結びつかなかった。
――あぁ、読んだんだね。つまらないでしょ、それ?
ノートを勝手に開いたことをとがめるでもなく、彼女は自嘲するような笑みを浮かべて言った。両親から夢を否定されたこと、それから物語を完成させることが出来なくなったことを悔し涙をこぼしながら教えてくれた。
私は思わず、叫ぶように言っていた。
――*********。
私の夢? 決まっている。
私はお姉さんの作品を世に出したい。夢といって思い浮かぶのは、それくらい。
そこに、私がいる必要は……、
「そんなの……、嫌だ」
「えぇ、すみちゃん、私のこと嫌いなのぉ」
「ええい、ひっつくなー」
勘違いしたクラスメイトが、なめくじのようにすがるのを引き剥がしながら、私は一つの答えを見つけていた。
未来の自分の姿を想像すれば、傍らには必ず、お姉さんがいた。
ノートに向かって、パソコンのモニターに向かって、真剣な表情で物語を紡ごうとするお姉さんが。私の作ったお弁当を口にして、幸せそうな顔を浮かべる史織さんが。
その日の放課後、私は机の中の奥底にしまい込んでいた、部活動の入部届を手につかむ。
中学校三年目の秋だ。運動部であれば、とっくに引退して受験勉強している季節。
だけど私には関係ない。お行儀良く、誰の目にも手がかからないと見られるような、空っぽの優等生が私だった。
推薦入学の道は、元から堅かった。
これまでずっと空白だった部活動名に、私は迷いなく書き込んだ。美術部の三文字を。
○
お姉さんの隣に立ちたい。
ただ、その想いだけを胸に私は日々を過ごした。
部活動に入ってからは、残り少ない期間を一心不乱に過ごした。
高校生になってからは、勉学に費やされる時間も増え、放課後の時間も少なくなった。それでも欠かさず、私は大学生になったお姉さんの、安アパートに通い詰めた。
お弁当を食べる時の笑顔を見るために。彼女が紡ぐ物語を見るために……。
最初の頃、両親からは、帰りが遅いことをとがめられることがあった。
私は、史織さんが家庭教師であると偽ったが、あながち大きな嘘ではなかった。
何も教えてくれない親よりも、つまらない授業しかできない教師よりも、史織さんがいたからこそ私の学力は保たれていた。
史織さんも親元から離れるために、勉学だけは手をぬかなかった。お姉さんの教えはいつも的確で、私の学力を支えているのが彼女だ、といっても過言ではない。感謝の言葉こそもらえども、疑いの目はもたれなかった。親からすれば、子供が作ったお弁当だけで、塾代、家庭教師代がまかなえるのだ。
史織さんは、いつだって私のことを褒めてくれた。
お弁当の彩りを工夫してみれば、
「すみちゃんのお弁当、また一段とかわいくなったね」
と必ず私の込めた想いを見つけてくれた。
テストで満点をとれば、満面の笑みで、自分のことのように喜んでくれた。
だけど、私がほしいのはそんな優しさではない。ずっと一緒にいられるための鍵をどうしてもつかまないといけなかった。
高校生の三年間、私は絵筆をとり続けた。高校生になってからは、美術部以外の文化部にも足を運んだ。スケッチブックやキャンパスだけではなく、デジタルの媒体で描く術も学び続けた。
彼女を落胆させないために、必死に取り組んだ日々は、足早に過ぎていった。
「最近疲れているようだけど、大丈夫?」
と、お姉さんが心配の言葉をかければ、
「お姉さんを養うための勉強で忙しいんです」
と私は言った。
夢を追いかけるのに、いつが早いとか遅いとかはないと思う。
だけど、夢を叶えるための力をつけるまでにかかる時間が短くないのは、誰にとっても同じだ。
苦しむお姉さんの姿をずっと見てきた。すぐにでも、救ってあげたいと思っていた。一年やそこらで叶うのであれば、世の中はクリエイターであふれかえっている。
基礎的な技術を身につけ、それを物語の形として世に出す。それだけでも大半の人は振り落とされる。そこから賞を取って、書き続けることができる人は、確率で語るのも嫌になるくらいだ。
それでも、私にはお姉さんの物語があった。描くべき物語は、すでに存在していた。
彼女の物語に対する絶対的な信頼があったから、この短時間で力を身につけることが出来たのだと思う。
高校の三年間という時間を経て、ようやく私はお姉さんの隣に並び立つことを決意した。
私はお姉さんが通う大学に入学した。
お姉さんの通う八畳間のアパートに二人暮らしという、窮屈な生活ではあった。けれでも、史織さんと一緒であればそれも苦ではなかった。
お弁当ではなく、朝昼夕の食事を用意するようになった。
お姉さんの栄養素は、私のお弁当でまかなわれていたらしく、ガリガリとはいかなかったものの、糖質脂肪分に偏った、とても看過できない食生活であった。
「まるで結婚したみたいだね」
同居してから数週間たったころ、史織さんは唐突に言った。
「たったの一年間だけですけどね」
私は大学の一年生、お姉さんは四年生。たった一年の同じ学校だ。
「そうだね。この生活がずっと続くわけじゃないんだよね。もうそろそろ、就職活動もちゃんと取り組まないとだし……。仕事探すとなったら、都会に住むことも考えなきゃかも」
当たり前のように、何事でもないようにお姉さんは言う。
私は彼女の言葉に、ふるふると肩を震わせた。
「そんなの……許しません……。私はお姉さんとずっと一緒にいたいです」
「私もおんなじだよ。すみちゃんと一緒にいたい」
「じゃあ、どうしてそんな簡単に、諦めたようなこと言うんですか。作家になるから就職しないんじゃなかったんですか」
「諦めてなんかいないよ。だからこれまでも、これからも、書き続ける。そのために自立しないといけないってこと」
「だから、就職なんて許さないんです。お姉さんは、私が養うんですから……」
そう言って、私は鞄の中から、タブレット端末をとりだし、お姉さんに手渡した。
「これって……」
「お姉さんの物語です。私が完成させました」
そこには、満面の笑顔で空を飛ぶ魔女が描かれていた。
一番の自信作だった。私のではない、お姉さんの傑作である。
お姉さんは、真剣な表情でタブレットを操作し、ページをめくっていく。
最後のページを見て、彼女は、
「あ……」
と声を漏らした。
私が見せた漫画は、すでに応募原稿の形をしていた。
応募者名の欄には、お姉さんの名字に私の名前。
「まるで婚姻届だ」
お姉さんは、涙をこぼしながら、大きく笑った。
よかった。少なくともあきれられるような内容ではなかったようだ。
安堵のため息をついていると、処理さんは急に厳しい顔をして、私のほおをつかんだ。
「ばかすみちゃん……」
私は困惑する。どうみても、告白して、OKの流れじゃないか。
「んなっ! どれだけ、お姉さんのこと思って描いたと思って――」
「違う。そうじゃないんだ。すみちゃんの思いはとってもうれしいよ」
史織さんは、うつむきながら言った。
「だから……、なんで言ってくれなかったの? 怖かったんだよ。毎日来てくれるけど、それでも、会えない時間が増えて。すみちゃんが私から離れてしまうんじゃないかって」
「そ……、それは、お姉さんに見せられるだけのものじゃないと、呆れられるから」
「そんなことで、私がすみちゃんを嫌うと思ってたの?」
すこしだけあきれたような顔を浮かべて、
「私の心を救ってくれた、大切な人を、嫌いになるわけないじゃない」
ふっと彼女は微笑みを浮かべた。
「やっぱり、就職はしようかな。今だったら、副業も認めてくれるところ多いし」
「なんでそうなるんですか⁉」
「よく聞いて。これでも、私はすみちゃんのお姉さんなんだから。これから渡るのは長い航路だ。油断したら、あっという間につまずいちゃう」
きれいな瞳だった。
「賞に受かっても、そこからどれだけの人が食べていけるか。きっと夢なんか見なけりゃ良かったって、何度も思うことになると思う」
決意に満ちた、澄んだ目をして、史織さんは言った。
「養うじゃないんだよ。すみちゃんと一緒に生きたいの。じゃなければ大学まで行って勉強なんてしないってば」
あぁ、ずるい。この人はいつだってそうだ。私の心をいつもめちゃくちゃに揺さぶって、止めどない想いを引き出すんだ。
私は、あふれ出るものを隠すように、お姉さんの胸に顔を埋めてうなずいた。
それからの日々、お姉さんは作品を“完成”させ、世の中に公開し続けた。
私が見込んだとおり、お姉さんの作品の評価は上々で、SNSのフォロワーも増えていった。投稿サイトのファンサイトも立ち上げ、広告収入や、ファンの支援による収入も、少なからず得ることができた。
あっという間の一年だった。
その日々の中で、史織さん、苦労しながらも就職を決めた。
言うまでもない。私が通う大学の近くの企業である。
稼ぎ口を複数持つというのは、史織さんの提案だった。
私だけじゃない。お姉さんも、私のためにどうすれば一緒に生活することができるか、その道を探し続けてくれていたのだった。
応募原稿は、何度も何度も手直しをした。史織さんの監修は、それは厳しいものだったが、苦ではなかった。本当の意味での、二人の作品に仕上がったのだから。
お姉さんの呪いはいまだ解けていない。呪いを解く必要はとっくになくなっていた。
卒業と就職が眼前に迫る中、私たちは、パソコンのディスプレイを眺めながら、緊張の面持ちを浮かべていた。
「ありがとう、すみちゃん。きっと、私一人だったら、ここまで来ることはできなかった」
画面には、とある漫画コンテストの投稿ページが開かれていた。あと、1クリックで投稿が完了する。
「私がお姉さんの重しになります。私の運命を狂わせたんだから。それほどまでに、好きなんです。史織さんのことが……」
史織さんの作品は、とは言わなかった。
「あのときの、すみちゃんの言葉があったからここまでこれたんだと思う」
私は、涙に暮れて、夢を捨てかけようとしていた彼女にこう言ったのだ。
――嫌いにならないでください! 私の好きなあなたの物語を。
「覚えているよ。でも、今は違う。これは私たちの物語」
史織さんは、マウスに手を乗せた。私も、その手を覆うように手を重ねる。
カチと、クリック音がなる。
それは鳥かごの鍵を開ける音のように思えた。
夢の鳥かご いつき @koma_itsuki
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