第9話 お弁当
玄関の鍵の開く音がした。
あーあ。
私は心の中で、大きく脱力する。心臓が心構えをするみたいに、胸辺りがぎゅっとなった。
ドアを開けて、母がリビングに入ってきた。予想はついていたから、驚かない。ああやっぱり、そう思った。
母は、黙っていた。空気が重くて仕方がない。
息がつまる。
母の回りに、私から空気を奪う装置でもついているみたいだ。母のところだけ、重力が異様にかかっているのかもしれない。
何となく、手に持っていたカップ麺を隠した。疚しいことはしてはいないつもりだった。けれど、現に私は隠してしまった。なので、これは疚しいものなのだと自分に気付かされる。
スープはまだ残っていた。体の中を重く占領するこの味を、私は結構気に入っていて、だから是非最後まで飲みたかった。
しかし、もう飲めない。むしろもっと早くに片付けておけばよかったと思う。
そっと腰を浮かして、椅子を足に引っかけて体ごとテーブルに寄せた。
母は、身構えた私をちらりと見て、すぐにそっぽを向いた。
疲れた顔、――ひどくやつれた顔。
「お姉ちゃんが、あんたの名前を呼ぶの」
母は、目を閉じて、そう言った。
「お見舞いに来なさい」
言葉の後に連なったのは、見舞いの誘いだった。
たったひとこと。付け足してふたことみこと。
それだけ告げると、母はリビングから出ていった。放り出されるように閉められたドアの向こうで、もう一度ドアの開閉音がした。そして、水の流れる音。
母は大抵、台所で手を洗う。
だから私は背面にあるキッチンの洗い場に、充分なスペースが出来るように、さっき椅子ごと移動した。
けれど、今日は違うらしい。
さっき一瞬だけ、私の手にしたカップ麺を見た気がした。けれど、それもやはり気のせいかもしれなかった。
結局、母はリビングに戻ってこなかった。どうやらそのまま寝たらしかった。
「えー、忙しいのにお弁当作ってくれてんの?」
大島さんのお母さんってすごいねえっ。
そう仲良くはないけど、私の家の事情を知っている子が何気なく言った言葉だった。
それは、夏期講習の時だった。その子はパンで、私はお弁当の包みを開いていた。それで、私は母が、姉の事で忙しい時以外は、私のお弁当を作ってくれていることに気付いた。姉はお弁当を食べないのに、私のお弁当を、わざわざ。
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