第8話 カップラーメン

 家に帰れば、そこは無人だった。

 朝に母が陣取っていた場所はがらんとして、窓から差し込む外の光を反射していた。茶色の四人掛けのダイニングテーブル。席が全部埋まることは本当に数えるほどしかなかった。

 姉が家に滞在する頻度は低く、たとえ帰ってきても、姉はいつだって自分の部屋でご飯を食べていたからだ。

 そして姉が家の、自分の部屋で食べる時は、母もいつもここにはいなかった。

 母のあたたかでかいがいしい声を、姉の部屋の向こうに聞きながら――私と父は、斜め向かいの席で、母の手作りの飯を食べた。

 姉専用の席は、ただそこにある名ありの席だった。正しくその用をなすことはなかったに等しい。

 それは、椅子の上のクッションを見ても歴然だった。

 私のクッションは、私の重みと時間を受け止めて、経年劣化を正しく行っている。

 姉のクッションを改めて見る。

 私の隣で窓から差し込む光の陰にひっそりとあり――使われずにいても、毎日埃が払われ、私と同時期に新調されるそれ。劣化を誘うのは、主の体重ではなく、緩やかな時と、埃を払う母の手のひらだけ。

 ずっと固そうで、何にも馴染まない様子で、椅子の上にのっかっていた。

 ――もう、これは私とそろいで新調されないのだろうか。

 ぽつりと心中に落ちた独白は冷たい後味だった。

 その味に、妙な心地になる。

 私は今までだって、あの真新しさをじっと見てきたはずだ。けれど、今日は妙な胸騒ぎがする。

 とても妙で――変な話だと思う。今まで、何にも気にかけていなかったのだ。

 いざ、姉が死ぬなんて聞いたら気にして、こんな気持ちになるというのは、いかにも嘘臭くて、合成っぽかった。

 そんな自分は嫌いだ。薄気味悪くて嫌だった。

 そうだ、そもそも食卓にそろわないのは姉だけじゃないではないか。

 私は思い直す。

 父もそうだった。父だって、私が中学に上がったころくらいから、ご飯の時間にほとんど帰ってこなくなった。父の存在は、もう長らく、ドアの鍵が閉まる音だけだった。

 今回の長期入院が決まってからは、もう陰もない。

 理由は知らない。仕事が忙しいのか。三人の――もしくは私と二人の食卓に飽きたのか――母と私、三人でいるときの、痛いような沈黙か、はたまた、ぴりぴりと頬の皮膚が捲れるような空気に耐えがたくなったのか。

 理由は尽きない。

 何が言いたいかというと、そもそも四人そろうなんて幻想だったっていうことだ。

 病院に母が行っているなら、私は一人でご飯を食べていた。いつだって。

 一人じゃなくても、母か、父と二人きりで食べていた。

 数のそろわない食卓なんて、当たり前だ。今までもこれからも変わらない。姉がこれから先、永遠にいなくなったとしても。


 部屋が見えなくなって、私はずっと立ち尽くしていたと知る。

 部屋の電気をつける。テーブルの傷も、醤油さしも塩も何もかも変わらない。いつも通りの家の食卓だ。

 変わらない、変わらない。

 変わらないなら、どうして私が、何かを変える必要があるんだろう。

 それはとてもバカらしいことに思える。そしてそれ以上に、とても卑怯なことのような気がした。

 今更、今更何を変えるというのだ。


 台所で手を洗う。洗面所に向かうのも、着替えるのも億劫だった。

 このままの格好で何か食べて、そして部屋に直行した方が賢い。

 たぶん母は病院だ。食事は一人でとることが出来る。

 カバンをテーブルの下に置いて、何を食べようか、ぼんやりと考えた。とはいえ選択肢は特になかった。

 ご飯は腹が満ちればいいから、何でも構わなかった。何でもいい時に、何を食べてもいいから、一人きりの食事は楽だった。


「ご飯くらい作って待てないの! 本当に冷たい子ね」


 二人きりのご飯では、母はたいてい私を叱りながらご飯を食べた。

 叱らない時はひたすらに無言で、箸の音だけがうるさかった。

 どちらにせよ、「どうしてお前はそうなの」といった様子だった。

 思い出して、私は胸やけする。ドライアイスを押し付けられたような気分になった。

 あれは変わるんだろうか。ヤカンに水を入れながら、考える。

 苦しみながら生きている姉を見守り続け、だからこそこんな私を不快に思う。

 それなら、姉が母の見えない場所、私と見比べられない場所に行けば、私は母に色々と言われなくなるんだろうか。

 それとも、もっとひどくなるのだろうか――わからない。死んでも人は、永遠なんだろうか。

 あれが変わったらどんなにいいだろう。でも、もっとひどくなるのはごめんだから、別に変わらなくてもいいとも思う。

 そんなことがとりとめもなく、熱されてヤカンの底から上がってくる水泡みたいに表面に浮かんでは消えていく。私はコンロの前に突っ立って、それらを何度もはじけさせていた。

 湯が沸くと、棚にあったカップラーメンにそれを手早く活用した。慣れによるカンが働くから、タイマーを使わなくてもちゃんと食べられる固さで作れる。

 部屋で一人、ラーメンをすすった。

 この部屋で、ちゃんと機能しているのは、家電と明かりくらいだ。

 私というものは、いつもどことなしに浮いている。

 想像すると何だかみっともなく感じて、すするペースを少し上げた。化学調味料のきいた味は、舌を刺して麻痺させていく。

 姉はカップラーメンを食べた事ってあるのだろうか。

 そんなことを思い立ち、打ち消した。ありえない。

 一口すすれば、コショウとしょうゆの味と、よくわからないコクが口の中に広がり侵食する。

 母は姉に、これは食べさせないだろう。食べたとしても、家で作った胃に優しいラーメンだろう。それは、もはやラーメンなのかわからないけれど。

 そもそもそんな優しいラーメンさえ、姉は口にしたことがないかもしれない。

 何で、今、こんなどうでもいいことを考えているんだろう。

 やっぱり、死ぬからだろうか?

 無性に腹がたった。だらだらと紙みたいな麺をかみ砕き、飲み込む。

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