第10話
「文彦君、ちょっといいかね」
坪田教授はどう思っているのだろうか、島田の名前を呼んだ。
「出掛けに行ってくるよ。荒井君、彼を借りていくがいいかね。それと、証拠不足で警察は逮捕できないから、現行犯逮捕で捕まえることにした。だから、君はここでじっとしていればよい」
島田と坪田は安田宅を出た。
「何があろうと、くれぐれもここから離れないように。一階のトイレの扉も開けてほしいから、よろしく」
という、坪田から荒井に向けられた言葉の意味に、島田だけが気づけないでいた。事件や現行犯逮捕の言葉を聞くのも、これがはじめてで、彼はすっかり夢を見ているような感覚になった。ただし、雨の冷たいことが彼を現実に戻させようとしている。
「坪田教授、どういうおつもりですか」
「ほう、そうかそうか。僕はおしえていなかったね。荒井君がすでに結婚していることを」
島田は
坪田教授は無表情で、外から荒井の行動を観察しており、島田のほうを見ずに、「それも西村君とは違う女だ」と付け加えた。わけがわからないので、もう一度聞き返すと、やはり、さきほどの解答を得られたばかりで、意味のはっきりとさせぬまま、教授に説明を求めた。
ここからの坪田教授の話は実に現実らしくないもので、おそらくは西村からのものと思われる匿名電話や警部との調査、それを語る教授はすべてを知っていそうだ。けれど内心では、教授が浮かぬ顔をしているような感じもする。
「もし心理が遺伝するとしたらどうだろう」
「心理遺伝……」
「あの警部は重要視していないが、僕は西村君が海に行かないことに疑問をおぼえたのだよ。論理の飛躍かもしれない。しかし、オカルトをあまり信じない僕でも、この線には何か特別な意味が含まれているかもしれない、と考えたんだ。すなわち、西村君が日常的に暴力を振るわれているんじゃないか、僕はそう捉えたんだ。結論を急ぎすぎたのか、僕にはまったくわからなかったがね。だから、僕はまず荒井君があやしいと思った。荒井家は金持らしい。するとどうだろう。金持だろうと名家とはかぎらない。でも、名家だとしたら結婚相手を自分で選べない可能性がある。例えるならば、
ところで、心理状態が感染することもあるんじゃないかね。いら立っている人を見て、自分もいら立ちたくなってくる。泣いている人を見て、自分も泣きたくなってくる。ときに、それは集団の中でも確認されることがある。
どうにもおかしくないかい。安田玉木の莫大な遺産がどこにいったのか。安田君が遺産を使ったにしては、その形跡が少なくはないかい。それと、高橋家はそれなりに裕福そうに見えるが、安田君は本当に、高橋さんから大切にされていたのだろうか。いいや違うね。僕は警部に、僕の名前を出さずに高橋さんの家族構成を聞き出すよういったんだ。安田君について高橋さんに連絡するさい、僕は実際に彼女の家に訪れて報告するんだが、それで僕が行ったとき、たまたま娘さんがいたんだ。この時置いてあった自転車は二台だった」
島田は気が動転しそうになった。
「これがどういうことかわかるかね。確かに娘さんはいたが、安田君本人はいなかったのだよ。ちょっとおかしい話だね。なぜ警部に安田君の自転車だといわないでいたのか。そう、あれを解釈するのに僕ははやとちりした。なぜというに、あの自転車の一台を安田君の物、と高橋さんからウソをいわれたんだ。事実、安田君は一人暮らしをしていて、僕はまだそれを知らないでいた。どうりで安田君とも会えなかったわけだ。この時点で、安田君の調査はそれほど深いところまでいっていなかったのだよ。そして僕は、安田道夫が高橋家にいる、という先入観を持ってしまった。
島田君、そろそろ気が付かないかい。だって、道夫の名字は安田なのに、養親の恵の名字は高橋なんだよ。恵さんは離婚したから、高橋じゃなくて安田のはずなんだ。そして、恵さんの名字が、現在も高橋であることを証明する、決定的な事実がなんにもないんだ。恵さんは安田君がいると気まずかったんだよ。だって娘さんの舞は……」
二人が一階に戻ってきた。今度は何が起きるのだろうか。
「君、証拠現場はトイレの窓からおさめてほしい」
島田はいわれた通りに場所を移動して、携帯電話で動画を撮りはじめた。
「安田さんにはすべて話しました」
「西村、そんなことをしてもどうにもなんねえよ。俺や舞だって、秘密を共有するしかなかったんだ。ごめんよ西村。うすうす勘付いてたんだよな。舞と安田の関係をずいぶん昔から」
「それだけじゃない。荒井君は舞ちゃんと結婚してたんでしょ。指輪をいっぱいはめて、結婚指輪と思われないように、偽装してたわね。今はあなた一人だけなのかしら」
「こうなるだろうと予想してたから、あの二人には説得して、帰ってもらったんだ」
「そのほうが確かにいいわね。ちょっと話し合いましょう。安田さん、キッチンでお茶を淹れてちょうだい」
安田はキッチンに向かい、冷蔵庫の中から、麦茶の入っているペットボトルを手に取って、三つのコップに注いでいく。彼は、冷蔵庫で作った氷もすべてのコップに入れた。
荒井はそれを気にもとめないで、うつむいている。
「あのう、できました」
と安田がいった瞬間、坪田教授は、玄関の扉を思い切り開けたようで、たちまち叫び声が島田の耳に聞こえてきて――。
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