第9話

「いつ行くんですか」

「今からだ」

 降りみ降らずみだったのが、電車の中で揺られながら外を眺めていると、ようやく本降りになった。移りゆく景色で森沢大学も、電車の進行方向から正反対に、遠ざかっていくのだった。

 そうして、駅を降りてタクシーで見慣れぬ団地を突っ切ると、あたりに山が広がった。山のふもとに安田道夫の家はあった。二階建ての木造建築で、背の低い塀に囲まれてトテモ堅固けんごな感じがしたのだが、肝心の家そのものは持ち主に影響されたのか、その部分だけ陰影がくっきりと際立きわだっている。

「すみません」と西村は門柱の呼び鈴を鳴らした。三人のかさを打つ雨がきれいな音で、チャイムは島田の耳には聞こえなかったが、十秒、二十秒、とようやく安田は出てきたのである。しかし、ひさしぶりにこの男と会ったのだが、昔の印象と現在の印象とではだいぶ異なったもので、裕福を感じさせない細身の体に、視力がわるいのであろうか、地味な眼鏡をかけていた。安田は、緩慢かんまんな動きをしながら、気味のわるい口調で自宅に案内するのだった。

 一階の中央広間で、壁掛けの大きなテレビを目の前にして、島田は、ひとつの長テーブルを囲むように配置された三つのソファに座っていた。テレビを正面にして、右手にはキッチンがあり、さらにそこから二階につづいている。一方、左手はトイレや風呂場、ほかにも物置部屋がある。

「わかってます、わかってますよ。僕を、連れ戻しに、来たんでしょ。ねえ、そうなんでしょ」と安田。

「ええ、その通りです」と西村。

 やはりおかしい。この空間でも、図書館や電車内でも荒井は必要最低限のこと以外、一切しゃべらなかった。時折、西村に話すそぶりを見せるのだが、どういうわけか言葉をみこむのである。

 あやしいな、と思いながら、島田は坪田教授と同じように、安田はひとまずそっちのけで、不思議な二人を観察した。しかし、その間も一応は安田と西村の会話を聞いていると、彼女の職務質問じみた問いかけに答える安田は、犯人かなんかのようである。

「なぜ大学にかよわなくなったんですか」

「……内容が難しい、から、ですよ」

「じゃあ、大学に入ろうと思ったのはどうしてですか」

「なんとなく、です」

 安田の返答はたどたどしいもので、こちらが聞いていてもやもやしたのだが、西村も貧乏びんぼうゆすりをしているところから、彼女自身もいらいらしているとわかった。この状況がたもたれていることに、島田は素直に驚いたのだが、ひきつづき耳をかたむけていると、さらに変化が起きた。

「安田さんの家は広いですね。こうも広い家におじゃまさせていただいて、とてもうれしいです。ところで、安田さんの部屋はどこにあるんでしょうか。見たところ、二階にありそうですが」

「……渚……」

 おやっ、と島田は思った。

 荒井が直接話しかけるところを、食堂以来、はじめて聞いたのである。それも、彼はいかりにふるえているようで、安田の場合は、なにやらこの状況におびえているようだったから、ますます混乱してきた。水面下で、自分ではわからないことが、勝手に進行しているようだ。いずれにせよ、恐怖の感情が部屋に充満していた。

 西村は荒井のほうを見て、ニヤニヤしながら彼の目をのぞきこんでいる。彼女からは、してやった、という感じがした。それでいて、歓喜かんきのためか、唇がかすかにふるえている。彼女が、なにかたくらんでいるのは事実のように思われた。ずっと前から、荒井と西村、そして、きわめつけは安田と複雑な関係性がありそうである。二人は安田とどのような関係だったのであろう。まさか自主参加したのではあるまい。

 島田は、この場から抜け出したくなった。

「そのう、トイレに行っていいですか」

 とことわって、彼はトイレに行った。

 そしてトイレを出ていく間際、不自然にも茶色の髪の毛が落ちていると気が付いて、彼は、これはどういうことかと考えつつ、しかしそんなことよりも、広間から、まだ話し声が聞こえるのにうんざりした。

「おい。調子にのるのも、いい加減にしろよ。ふざけてんじゃねえぞ。おまえ、安田なんかのどこがいいんだよ。大体、こんなやつは、つまんねえにきまってんだろ」

 思った以上に、ひどいことになっている。

「あらら、大輔君は安田さんの部屋を見たくないの」

 荒井は無言のまま、この場に残って、呪文のように愚痴ぐちをはきながら、二人が去るのを眺めていた。

 どうも変だ――この感覚はなんどもあった。要約するならば、大学内で西村がおびえていたのに対して、現在は彼女が有利な立場に見えてならないこと、そして、彼女にとって安田は必要不可欠な存在で、上手いこと利用しているといった感じであることだ。荒井は、致命的な秘密でも抱えているのであろうか。こればかりは、物理的証拠もないのだが、おおよそ直観というやつでわかった。

 島田、坪田教授、荒井大輔、という三人だけの空間はひどいものである。ひょっとすると、西村と安田がすぐに戻ってくるかもしれない、なんて幻想は思いどおりにならず、気まずい雰囲気はいつまでもつづくように思われた。

 島田はとうとう我慢できなくなった。

「坪田教授、その、こういうのがトイレに落ちていたんですが」

「それは茶髪だな」

 荒井が反応を示した。

 けれども、そこには一貫した沈黙があるようで、坪田教授がわずかに目を見開いただけだった。やがて、教授がほかの話に切り替えた。

「なかなか片付けられた家だね。安田君はきれい好きかい」

「いや、そうでもないですよ。あいつは元々自分の部屋ですら片付けられなかった。なのに、こうしてあいつと偶然会うことになって、どうにも、こいつはこんなに整理整頓せいりせいとんのできるやつじゃないんで、ちょっとおかしいんですよ。あいつは物を捨てられない男なんで」「ちょっと気になるんだが、君は自分から集まりに参加したのかね。もしかすると、君は誰かが強制参加で選ばれたから、こうやって参加したのではなかろうか。そして、ここまでの情報を聞いてわかったんだが、たぶんそれは西村君ではないね。でも、君は決定的なある間違いをおかしてしまったのかもしれない。西村君がわざと参加した、そういう風には考えられないかい。君は事情をくわしく知っている。それに、そもそも君はこれから起ころうとしている事件の発端なんだよ。なぜなら、君はこれから殺されるからだ」

 カーテンの奥が一気に明るくなった。光が暗い広間を満たすかわりに、それはどこか不吉な感じをただよわせている。そうして、三人がふっと顔を上げて窓のほうを眺めていると、やはり雷鳴が鳴り響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る