第9話
「いつ行くんですか」
「今からだ」
降りみ降らずみだったのが、電車の中で揺られながら外を眺めていると、ようやく本降りになった。移りゆく景色で森沢大学も、電車の進行方向から正反対に、遠ざかっていくのだった。
そうして、駅を降りてタクシーで見慣れぬ団地を突っ切ると、あたりに山が広がった。山の
「すみません」と西村は門柱の呼び鈴を鳴らした。三人の
一階の中央広間で、壁掛けの大きなテレビを目の前にして、島田は、ひとつの長テーブルを囲むように配置された三つのソファに座っていた。テレビを正面にして、右手にはキッチンがあり、さらにそこから二階につづいている。一方、左手はトイレや風呂場、ほかにも物置部屋がある。
「わかってます、わかってますよ。僕を、連れ戻しに、来たんでしょ。ねえ、そうなんでしょ」と安田。
「ええ、その通りです」と西村。
やはりおかしい。この空間でも、図書館や電車内でも荒井は必要最低限のこと以外、一切しゃべらなかった。時折、西村に話すそぶりを見せるのだが、どういうわけか言葉を
あやしいな、と思いながら、島田は坪田教授と同じように、安田はひとまずそっちのけで、不思議な二人を観察した。しかし、その間も一応は安田と西村の会話を聞いていると、彼女の職務質問じみた問いかけに答える安田は、犯人かなんかのようである。
「なぜ大学にかよわなくなったんですか」
「……内容が難しい、から、ですよ」
「じゃあ、大学に入ろうと思ったのはどうしてですか」
「なんとなく、です」
安田の返答はたどたどしいもので、こちらが聞いていてもやもやしたのだが、西村も
「安田さんの家は広いですね。こうも広い家におじゃまさせていただいて、とてもうれしいです。ところで、安田さんの部屋はどこにあるんでしょうか。見たところ、二階にありそうですが」
「……渚……」
おやっ、と島田は思った。
荒井が直接話しかけるところを、食堂以来、はじめて聞いたのである。それも、彼は
西村は荒井のほうを見て、ニヤニヤしながら彼の目をのぞきこんでいる。彼女からは、してやった、という感じがした。それでいて、
島田は、この場から抜け出したくなった。
「そのう、トイレに行っていいですか」
とことわって、彼はトイレに行った。
そしてトイレを出ていく間際、不自然にも茶色の髪の毛が落ちていると気が付いて、彼は、これはどういうことかと考えつつ、しかしそんなことよりも、広間から、まだ話し声が聞こえるのにうんざりした。
「おい。調子にのるのも、いい加減にしろよ。ふざけてんじゃねえぞ。おまえ、安田なんかのどこがいいんだよ。大体、こんなやつは、つまんねえにきまってんだろ」
思った以上に、ひどいことになっている。
「あらら、大輔君は安田さんの部屋を見たくないの」
荒井は無言のまま、この場に残って、呪文のように
どうも変だ――この感覚はなんどもあった。要約するならば、大学内で西村がおびえていたのに対して、現在は彼女が有利な立場に見えてならないこと、そして、彼女にとって安田は必要不可欠な存在で、上手いこと利用しているといった感じであることだ。荒井は、致命的な秘密でも抱えているのであろうか。こればかりは、物理的証拠もないのだが、おおよそ直観というやつでわかった。
島田、坪田教授、荒井大輔、という三人だけの空間はひどいものである。ひょっとすると、西村と安田がすぐに戻ってくるかもしれない、なんて幻想は思いどおりにならず、気まずい雰囲気はいつまでもつづくように思われた。
島田はとうとう我慢できなくなった。
「坪田教授、その、こういうのがトイレに落ちていたんですが」
「それは茶髪だな」
荒井が反応を示した。
けれども、そこには一貫した沈黙があるようで、坪田教授がわずかに目を見開いただけだった。やがて、教授がほかの話に切り替えた。
「なかなか片付けられた家だね。安田君はきれい好きかい」
「いや、そうでもないですよ。あいつは元々自分の部屋ですら片付けられなかった。なのに、こうしてあいつと偶然会うことになって、どうにも、こいつはこんなに
カーテンの奥が一気に明るくなった。光が暗い広間を満たすかわりに、それはどこか不吉な感じをただよわせている。そうして、三人がふっと顔を上げて窓のほうを眺めていると、やはり雷鳴が鳴り響いた。
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