003
私を中心とした半径1mは私だけのプライベートスペースだ。
それは文字通りの意味であり、この異世界に降り立った私が得たユニークスキルでもあった。
この世界において、ここだけは私の居心地のよい空間となる。
まるで前世の自室にいるかのように落ち着くことができ、私への攻撃は全て遮断され、効果を及ぼさない。
一方で、私はこの空間だけしか自由にすることは出来ない。
だが、それでいい。私は元々平和主義者なのだから。
そのため、これまでに困ることは一度も無かった。
怖そうな人に絡まれても、この空間に入れば優しい人に変わる。
魔物に襲われても、この空間に入った途端、敵意を失い人懐っこくなる。
不味い食事は美味しい食事に変わり、安宿の設備は高級宿のそれに変わる。
ただ、変わらないものもある。
貨幣価値はそのままだ。
私に敵意を持たない人もそのまま。
私に影響のない攻撃は素通りしていく。
それは私が変えなくていいと思っていることだからだ。
そして、私を利用しようとする人は、私に危害を加えないのであれば、そのままになってしまう。
例えば、喧嘩の仲裁や犯罪者の捕縛、山賊の討伐なんてものもあった。
これを全て断ると、狡猾な人間に目をつけられていいように使われることが目に見えているので、ある程度受けることにしている。
ただ、人死にだけは耐性がないので、断ることにしているけれど。
そして、この能力は1mより外は守れない。
つまり、私以外の誰かを守る事には向いていない、ということだ。
だから、親しい知り合いは作らずに、各地をほどほどに転々としている。
私はそれなりに引きこもりで、だからこそ現実的だ。
誰かに優しくされたら、きっと好意を持ってしまう。
そして、その誰かが私の弱点となり、私を使うための鍵となってしまう。
それを恐れた私は、この能力をもらった理由も忘れて、旅をし続けるしかなかった。
ただ、旅をしたかった。それだけなのに。
引きこもりの私が唯一望んだ、その夢は、いまだに叶わない。
叶えることができない。
そうやって荒んでいるときだった。
ある男性に出会った。
いかにも軽薄そうで、遊んでいるように見える風貌だった。
私が2番目に嫌いなタイプだ。
1番目は私に危害を加える人。
2番目は害意は無いけれど、迷惑になる人。
3番目は害意は無いけれど、最終的に損をさせる人、だ。
付きまとわれると面倒だから避けていたのに、その人とは何度も会うことになった。
その度に偶然を装っているけれど、間違いなく跡をつけられている。
そう思って説得してもはぐらかされて、八方塞がりだった。
そんなときに、力になってくれる人が現れた。
本当は良くないことだ、と、そう思っていても頼らざるを得なかった。
その人は真面目そうで、融通が利かなそうな人だった。
だけど、軽薄そうな人が現れたら、いつも私の前に立ち、逃がしてくれた。
その人に好意を寄せるのに、時間は掛からなかった。
そうして、私は裏切られた。
ある晩のことだった。
よく眠れなくてたまたま起きた私は、隣のベッドに彼がいないことに気が付いた。
そして、少しだけ開いた扉の隙間から、声が聞こえて来たのだ。
それは幾らだとか、いつどこでだとか、打ち合わせをしているように思えた。問題なのは、その片方の声が、隣で寝ていたはずの彼だということだった。
私は逃げた。
窓から身を乗り出し、そのまま落ちる。
私の身長は2m無いので、足の少し下までは能力の範囲内だ。
つまり、私は安全に着地することに成功した。
悲しかった。辛かった。そしてやっぱりという気持ちが、心のどこかにあって、余計に私を荒ませた。
もう誰も信じられない。そう思っていたのに。
「俺の後ろに」
そう言って私の前に立ったのは、あの軽薄そうな男だった。
混乱した私はそのまま逃げだし、それでもいいさ、という男の声を聞いた。
すでに後ろから聞こえて来た追手たちの足音は、気が付けば聞こえなくなっていた。
無我夢中で走るまま。私は門番を振り切って街の外に出た。
それでもまだ足りなかった。すぐにあの場所から離れたかったからだ。
とにかく一人になりたかった。なのに。
「やぁ。大丈夫?」
そう言われて。
「一人にさせて」
つい強い言葉が出てしまった。
その人は困ったような表情で、木の幹にもたれて立っていた。
「じゃあ、これだけ言わせてもらうけど、あの2人をもう追ってこないようにはしたから」
どうやって、と尋ねようとしたけれど、もうそれすらも億劫だった。
私がその場に蹲ると、視界の隅で、その人が歩いて行くのが見えた。
それからは誰も信じなかった。すべてを疑ってかかった。
だからか、段々旅をするのにも疲れてきて、私は森の中に小屋を建て、そこに暮らすようになった。
ここなら誰も来ないし、トラブルにも巻き込まれない。
結局、前世と同じように引き籠る自分に諦めを感じながら、私はのんびりとそこで過ごした。
あの軽薄そうな人は、あれ以来見かけていない。
引きこもっているから当然ではあるけれど。
それでも、ある日ひょっこり出て来そうだったけれど。
結局一度もそんなことはなかった。
それを知ったのは、たまたま、少し遠くまで行ってみようか、と思ったときのことだった。
これまでも散歩はしていた。でも、この家の周りだけだ。
だけど、森の奥の方になら少しぐらい遠出してもいい気分になっていた。
久しぶりに、少し歩いてみようと森から踏み出すと。
そこは赤く焼けただれた地面が広がっていた。
一体何が。そう思って周辺を歩けば、丁度、私の家を中心としてぐるりと周りが焼けていた。
それは山頂から流れ、ここを綺麗によけて山とは逆の方向へと向かっていた。
いつの間にか私の能力が強くなったのか、と思って久々にステータスを開いてもそんなことは無かった。
ただ、その代わりに、幸運、という名前のバフが付いていた。
残り時間が表示されていて、そこには残り10秒、とあった。
誰かの足音が聞こえる。ふと顔を上げると。
「あっ」
私と目があった、軽薄そうな人が声を上げて踵を返すところだった。
視界の隅で幸運のバフの残り時間が増える。
私はその後ろ姿に手を伸ばして、すでに遠くまで行ってしまった彼を……呼び止めることができなかった。
そのバフは10日間、続くようだった。
つまり、10日後に、また来るのだろうか。そう思った私は首を振る。
一度心に決めたことを覆したくはない。
けれど、もし、そうだったのだとしたら。
私は……どうしたらいいんだろう。
何も決まらないまま、日が過ぎて。気が付けば10日後になっていた。
確かめる心の準備も、具体的にどう対応するかも決まっていない。
だけど、私の足は自然と森の外に向かっていた。
今度は木陰に隠れて様子を伺う。
すると、焼けただれたままの地面の向こうに人影が見えた。
それは徐々に近付いてきて、ずっと手前で立ち止まった。
あの人だ。
出しておいたステータスの隅で、時間が更新され、私が何か言い出す前に、その人は逃げるように元来た方向へと帰っていった。
内心ほっとしている自分がいて、また少し自分のことが嫌いになった。
だから、もう自分を嫌いにならないために。
じっくりと7日間の間、考えて、考えて決めた。
私はもう迷わないことにした。
私が、私を嫌わないために。
私が、私の幸せを諦めないために。
その次の3日後から、捕まえたい私と、逃げる彼の追いかけっこが始まった。
どうして逃げるのか、分からなかった。
前は付きまとうほどだったのに、どうして、と理由を聞きたかった。
それだけじゃない。
いつの間にか守ってくれていたことに、お礼を言いたかった。
私に会わないでいてくれたことに、ありがとうと言いたかった。
それなのに、私は彼を捕まえられない。
私を守る能力は、彼を捕まえることには向いていないようだった。
それどころか、何の役にもたたなかった。
なぜか、彼は私のいる場所が分かるようで、いつも一定の距離以上は近付いて来ない。そうやっていつも逃げられてしまう。
どうすればいいのか分からない。
今度は気の迷いではなくて、問題が解決できないということだ。
だから私は__一度諦めることにした。
そして、この私のテリトリーに誘い込むことにした。
それでも、ダメだった。
罠を仕掛けても、引っかからなかった。
彼が来る側のところに紐を張って鈴をつけたけど、鳴ることは無かった。
しばらくしてから気が付いた。
私に幸運のバフを掛けるほどなのだから、本人の運が悪いはずないのだ。
それも、火砕流が私を避けるほどのバフを掛けられる彼が。
その時にはもう、それはほとんど確信に変わっていた。
だから、手紙を書いた。
せめて、お礼だけは伝えたくて。
手紙は開いた跡があって、返事は無かった。
それだけでも私は満足だった。
ううん、それは嘘だ。本当は理由も聞きたかった。
だから、答えなくてもいいからと前置きして、とうとう、私は確信を突く手紙をそこに置いた。
そうして、返事が来た。
そこにはまず、謝罪の言葉と、それから私から逃げる理由が綺麗な細い字で書かれていて、私は思わず片手で口を覆った。
そこにはこう書いてあった。
すまない。
君には本当に迷惑をかけた。
これはその償いで、それもあるけれど。
本当は、恐いんだ。
僕は君が好きだ。一目惚れだった。
だけど、君に会えば、君と離れたくなくなってしまう。
僕は僕以外の誰かの幸運を奪ってしまう能力を持っている。
これまではそれでいいと思っていた。自分が一番だと思っていた。
でもそれは違った。大事な人が、不幸に巻き込まれて目が覚めたんだ。
よく考えて、自分の不始末を呪った。
僕はもう嫌なんだ。僕が原因で君が傷付くことが。
僕のせいで、君に不幸が訪れることが。
僕は君を、僕の所為で失いたくない。
遠くから見るだけで、それでいいんだ。
だから、どうか許して欲しい。
それを見て、初めて。
私は、自分の能力の低さが嫌になった。
これまでは1mで良かった。1mで十分だった。
だけど、今はたった1mじゃ足りなかった。
これまで、必要ないと思ったことはあった。
でも、欲しいと思うことは無かったと思う。
もっと、もっと欲しいと思った。
せめて、10m、いや、100mあれば、ここで彼と暮らせる。
この能力は、範囲内にいる限り、私の思い通りにできる。
人が何を考えているかまでは分からないけれど、
きっと、幸運を吸い取ることは止めさせられる、と思う。
だから、私は初めてレベルを上げてみよう、と思った。
私の幸せのために。私は私に懐く魔物を狩る勇気を振り絞った。
その日から、私の食卓に、お肉が増えた。
久しぶりに食べたお肉は、ちょっと印象と違ったけれど、美味しかった。
そうして、レベル上げを始めて、最初の、その日。
私は彼を捕まえることに成功した。
あっけなく、しまりのない始まりだった。
その日のことは今も覚えている。
私が彼を抱きしめ、彼が何によってか、私から幸運を吸わないと気付き、涙したあの日から、私たちの不幸は終わったのだ。
「マリー、何書いてるんだい?」
「……ちょっとね。日記みたいなものよ」
「ふぅん、ちょっと読んでみてもいい?」
「駄目に決まってるでしょ。えっち」
「ごふっ!?」
私がそう言うと、彼は鼻を抑えてお腹を抱えた。
なぜか、そんな風に言うと、彼はそういうジェスチャーをする。
前に理由を聞いたら、君が可愛すぎるから、と意味の分からない答えが返ってきた。
それはそれとして、可愛いと言われるのは、その、嬉しいけれど。
「あーうー」
「あ、ほら、メリック。ウィンが気持ち悪いって」
「それは酷くない!?」
「何言ってるの。おむつよ、お・む・つ」
「あ、そっちね」
昨年、待望の赤ちゃんが生まれた。私たちの赤ちゃんだ。
私とメリックの……愛の結晶、なんていうと恥ずかしいけれど。
私たちの愛し子は、今日も手足をバタバタさせて、元気に育っている。
彼女に……能力があるかはまだ分からないけれど。
きっと上手く行く。そう思ってる。
私とメリックなら、きっと乗り越えられると信じてる。
それを口に出して言うのはちょっと恥ずかしいけれど。
「今日は可愛いね、マリー」
「何言ってるの。いつも可愛いでしょ」
「うん。だけど、いつも以上に」
「……もう、調子いいんだから」
メリックの軽薄なところはあまり変わってないけれど。
今は、その中に深い愛情があることが分かる。
それがなんだか無性に嬉しくて、ついつい許してしまうのだ。
そうやって許せば、メリックは満面の笑顔を見せてくれる、ということもあるけれど。我ながら、安い女だな、と思う。
ウィンはメリックみたいによく笑う。無邪気で明るい笑顔だ。
そして、顔つきは私に似ていて、本当に2人の子供なんだと思える。
これからは、私とウィンとメリックの3人で生きていくのだ。
恐いものが無いとは言わないけれど、少なくとも頼れる母ではありたいと思う。
おわり
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