蓮の葉の裏

風見弥兎

第1話 ☆

 わたしは今、修羅場とも呼べない修羅場の真っ只中にいるのかもしれない。

「確かにお母さんの人生だけど、娘の私に全然話もなしにって流石に酷いでしょ!」

「それは本当ごめんってば〜!!」

喧々轟々おさまりのつかない感情を発露する先輩と、泣いて謝る先輩のお母さん。そして土下座したままひたすら謝罪の言葉を口にするわたしの父。目の前で繰り広げられる喧騒をお茶を啜りながら黙って眺めているわたしの姿は、つまらない昼ドラを観る視聴者のそれに他ならなかった。


 事の発端は深く考えなくても、わたしの父が悪いのだ。金曜日の夜に深酒をして帰ってきた酔っ払いの口が寝言のようにのたもうたのは「婚姻届をねー……出してきたんだぁ……」である。交際している女性がいたのは知っているけれど、いい年した子持ちのおっさんが踏んでいい手順ではないことは明白だった。

 大学を卒業していないだけで既に成人済みのわたしは、就職まで抜かりなく金銭面の面倒を見てくれればいいと翌朝平謝りをしてきた父に素っ気なく冷たく返したのだが、お相手側はそう簡単には済まなかったらしい。

「もう知らない!」

「ええん許してごめんね茉莉ちゃん……!!」

 どっちが親なんだか。日曜日の朝に泣きながらうちにやってきた戸籍上の新しい母親と、追いかけてきたその娘ーーサークルの先輩である茉莉が繰り広げる口論は段々と程度が幼稚化している。わたしが知っている大学での先輩は、落ち着いた大人の女性という表現が似合う柔らかな物腰の人。だが今ほろほろと涙をこぼしながら、唇をきゅっと結ぶ姿は、まるでいたいけな幼子のよう。整理の付かない心境がそうさせているだけと理解していても、普段とのギャップにくらりと眩暈がしそうだった。


 言いたい事は一通り吐き出したらしい先輩が口を閉ざし、いっとき静かになった室内にピピッピピッと無情な電子音が響いた。このアラームが何を示すかわたしは知っている。土下座したままの姿勢で父が、少しばかり顔を上げて申し訳なさそうにこちらを見てきた。自分で招いた自体なのに助け舟を出して欲しいとはいい度胸だなと内心で思いつつ、わたしは空になった湯呑みを少々音の立つようにテーブルへと置いた。

「時間です。馬鹿父と茉莉先輩のお母さんは飛行機に乗り遅れないよう、早く出発してください」

 三者三様の視線を受けつつ、わたしは端的にそう告げた。同僚である親の彼らが明日から半年の海外出張な旨は先輩も知っていたらしい。苦虫を噛み潰したように眉根を寄せながら、部屋の隅に投げおかれた母親の荷物をわざわざ取りに行ってあげていた。

「すまん、遥香……」

「仕送り金とお土産たっぷりで、わたし、は、許してあげる」

「ハイ……」

「先輩のフォローはしといてあげるから」

「……ハイ」

 申し訳なさそうに背を丸めながら足早に出掛けていった二人を見送り、わたしは玄関の扉を閉めた。体調には気をつけてねと見送る言葉をかけていたので、先輩も最低限は割り切ることにしたのだろう。ようやく嵐が過ぎ去ったと言わんばかりに息を吐いたわたしの肩をちょんちょんとつつく彼女は、申し訳なさそうに肩をすくめていた。

「あの、遥香ちゃん……」

「なんですか?」

「色々と、その……ごめん、ね?」

「いえ、うちの馬鹿父が元凶ですし」

「いや何も言ってくれなかったうちの母が全面的に悪いので……」

 玄関先でお互いに頭を下げて、そしてしばしの沈黙の後、どちらともなく堪えきれずに笑いが溢れた。

「ねぇ、これからおねえちゃん、って呼んだらいい?」

 彼女の膝に置かれていた手にするりと指先を這わせて絡めとり、覗き込むように顔を近づける。なけなしの、ありったけの演技力を総動員した甘ったるい囁きは彼女を赤面させるに足る威力を持ってくれたらしい。

「えっ、え、ええっと……」

 視線を泳がせもごもごと口籠るその頬に軽く唇を触れさせて、わたしは悪戯が成功した子供のように彼女に抱きついた。

「まさか合法的に先輩と住めるようになるとは思わなかったです」

「それは、私も……うん……」

 たどたどしく背中に回された腕で抱きしめ返されて、わたしはそのいじらしさに胸が熱くなる。

「は、遥香ちゃん」

「なぁに?」

 寄せた唇を両の手で防がれて残念な気持ちと、この人はそうであって欲しいという願いが叶った思いがないまぜになって、誤魔化すようにわたしは唇を尖らせた。

「玄関は、ちょっと……」

「え、ああ……恥ずかしい、んだ?」

 羞恥に細められた目元を指先でなぞりながら、内心で小さくほくそ笑む。自分の意見をしっかり持っていて誰にでも優しい頼れるお姉さんで通している彼女ーー茉莉は、本当は押しに弱くてちょろくて流されやすい可愛いかわいいひと。わたしの目の前でぼろぼろと崩れ落ちる虚勢の仮面の下にある表情を、もっと暴き出したくてたまらない。そんな暴力的な気持ちを無理矢理ぎゅっと心の底に押し込んで、わたしはさも理解しましたと言わんばかりの表情でパッと茉莉の腰に回していた手を離した。

「しませんよ。今は」

「〜〜〜〜もう!」

 耳まで真っ赤に染まったゆでだこ状態の彼女に微笑んで、抗議に振り上げられた手を掴む。期待しちゃって馬鹿みたいだと顔に書いてある事は突っ込まない事にして、指を絡めて繋いだ手を引いた。

「馬鹿父が買ってきたケーキがあるんで食べましょう。とっておきの紅茶も淹れますね」

「しっちゃかめっちゃかになって喚き散らしてごめんなさい……」

「わたしは別に。でもまさか先輩のお母さんが全く何も話してなかったってのには驚きました」

「うん、そう、ほんとそれ……」

 哀愁漂う溜め息がひとつ。わたしが知り及ぶ両親の馴れ初めを簡単にまとめると、一年前から交際をしてた意中の人にようやくプロポーズできたと父に惚気られたその週の終わりに結婚しやがったである。そんな芳しい紅茶の香りに相応しくない下世話な内容に茉莉は相当ショックを受けていた様子だったが、唖然とした表情にぽっかりと開いた口はなんだかとっても間抜けだった。

「ハイ食べて」

「ーーっん、んむ……」

 フォークに突き刺した桃を無理矢理その口に押し込んで、わたしはにんまりと笑ってみせる。母娘の彼女には悪いが父娘のこちらとしてみれば、親といえど所詮は他人で言い方を悪くすればあれも一人の男でしかなかったのだ。だから女である前に母でありたかったとか、彼女の母親に聞いてみればきっと何かしらの言い訳は聞けるだろう。それでも説明しなかったのは確かに彼女の母親の非だ。けれど彼らが納得の上でした行為に、もう成人しているわたし達はそれほど影響を受ける必要は無いと少なくとも、わたしはそう思う。

「ていのいい隠れ蓑をありがとう、でいいんじゃないですかね」

「……でも」

「同性愛者が部屋を借りるのは大変だそうですし」

「……むう」

 苺にメロンにと咀嚼が終わるタイミングで次々彼女の前にケーキを彩っていた果物を差し出せば、茉莉は雛鳥のようにされるがままそれを口にした。こぼれ落ちた髪を耳に掛け直す仕草がやたらと色っぽいのはいただけない、なんて湧き上がった邪な気持ちに蓋をする。今はまだその時ではないのだから。

「遥香ちゃんは、いいの?」

「なにがです?」

「私が、おねえちゃんになっても」

 射抜くように真っ直ぐ見つめてくる瞳は真剣そのもので、わたしは弧を描かせていた唇の端が僅かばかり引き攣るのを自覚した。

「……大手を振って許される世間だったら、嫌でしたよ」

 淀む事なく返した言葉は違えようのない素直な気持ち。あらゆる所において独り占めしたいのに、世間一般はこの想いを認めてくれない。フィクションだと普通じゃないと揶揄して、繋ぎ止める術すらまともに取り合わない。

「茉莉と合法的に容易く一緒に暮らせるならなんでもいい」

 使えるものは親でも使えとは、本当によく言ったものだと思う。こんな例が他にあるかどうかは知らないし、知る気もないがかなりの幸運には違いない。

「だから、わたしは必要に合わせて欺き通してみせるよ。おねえちゃん」

「……そっか」

 屈託なく笑ったわたしを見て、先輩は静かに頭を掻く。そして少しばかり肩を落として呻いた後、決心したように顔を上げて微笑んだ彼女の瞳には強い光だけが宿っていた。

「ねえ。私、遥香ちゃんが好きだよ」

「知ってますよ」

「遥香ちゃんは?」

「もちろん好きですよ、茉莉先輩」

 少しばかり距離が近い、幾度となく繰り返してきた大学での表向きのわたし達。もしうっすら気配を感じたとしても、交際しているかどうかを確認できるボロなどどこにもない。

「私も、頑張るね」

「先輩はそのままでいいです、嘘つくの下手なんで」

「ええー」

 ぷっくりと膨らませられた頬を指先で突きながら、わたしは苦笑する。相変わらず年上なのに子供のようなところが可愛らしくて憎めない。だから、世間一般の普通から外れた部分を隠す役目はわたしが負おう。あの日虚空に消えようとしていた微かな想いを拾い上げたのは、他ならないわたしなのだから。

「大人しく、いつも通りにわたしの傍で笑っててください」

 秘めた想いをわざわざ口に出しはしないけれど。ティーカップに伸ばされた茉莉の手をを取って、誓うようにわたしはその甲に唇を寄せた。

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