第5話 別れ
「ただいま」
そう、ウメさんが口にするようになって半年が過ぎた。
その日も変わらずにウメさんは「ただいま」と口にして、
そして制服は血みどろだった。
とはいえ、私ももうすっかり慣れたもので、「おかえり」と言いながら救急箱を出す。ウメさんはよくこういう風貌で帰ってくるのだ。そして、ウメさん自身は致命傷を負っているわけではない。大概は返り血で、ウメさんはかすり傷がほとんどだった。
それでなくともウメさんは怪我の治りが早い。
二か月前に、ウメさんは硝子コップを割って指に怪我をしてしまったことがある。けれどその怪我は、私がウメさんに声をかける合間にふさがっていた。普通の人間ではありえないような速さで治っていた。
ウメさんは、一瞬だけバツの悪そうな顔をして。そして「理沙さん、あの歌を歌ってください」とごまかすように口にした。
ウメさんにとって、それは私には知られたくないことなのだろう。モブには近寄ってはいけない領域なのだ。
私は一瞬それにたじろいで、けれど「しょうがないなぁ」と口にした。
だってウメさんは主人公で、私はモブだし、と。そう思った。同時に、この心地よい関係を、壊したくはなかった。だから。
踏み込まないようにして。あの歌を歌った。
そんな感じなので、だから私には半年たった今でも、ウメさんが何の目的でここに居るのか、その目的は達成されているのか、それとも難航しているのか、そういう事はわからないままだった。物
語の主要人物でない以上、わかりようが無いのだ。故に、いつまでウメさんがここにいるのかもわからないのだと、そう自分に言い聞かせた。
言い聞かせながら、この生活ができれば長く続けばよいなと思っていた。ウメさんの物語が進展しなければいいな、とも。
だから。
「多分、次の満月くらいが正念場だと思う」
ウメさんからサラッと告げられたそれに、最初は何の話をされたのかがわからなかった。
その時の私はといえば、スーパーで半額だった堅焼きプリンを片手にかけたところで、そのままポカンとウメさんを見てしまった。
次、満月、正念場。
なんだかどれもピンとこない言葉である。けれど私がそれを問いかけるよりも先に、ウメさんは再び口を開いた。
「次ので成功したら、元の部署に戻る。失敗したら、別のところに異動する。どちらにしろ理沙さんはその時点で私とのことは忘れるから、そこらへんは心配しないでいてくれると嬉しい」
そこまで紡いで、ひと呼吸。
「理沙さんに迷惑はかけない」
そう、付け加えた。
なんだ、どいうことだ、よくわからない。
私の中でぐるぐると疑問符が幾つも浮かんだが、要約すると最後の闘い的なものが行われるということなのだろう。
そして、それが成功しても失敗しても、ウメさんはここにはいられない。そして、私は強制的に記憶を失うことになるらしい。
なるほど。何気ない日常というのはこうやって護られているらしい。
私はウメさんに幾つか問いかけたいことがあったが、しかし、そのどれを聞いても、今聞いた以上の情報は得られないのだなぁとも理解していた。それに聞いたところで、きっと理解はできないだろう。
だから変わりに、
「ウメさんが使ってたものとかはこのままになるのかしら」
日常生活に直結しているところだけ問いかけた。
「歯ブラシとかマグカップとか。ここに来てから買った服とかはこのまま?」
「それは後で本部が回収する。理沙さんの知らないところで知らないうちに終わってるから理沙さんは気付かないと思う」
「なるほど。じゃあ本当に私は全て忘れてしまうんだ」
私の問いかけに、ウメさんはコクリと頷いた。
いつもと変わらない様子だった。
一抹の寂しさは感じたが、けれど、まぁ、そういうものなのだろう。私はモブで、そしてウメさんは主人公だ。いつか終わりはくるし、そしてそれは私が決められることでもない。
「そっか」
私は呟いて。そして、プリンの蓋を開けた。特に今、もうやることなのないのだ。来たるべきときが来た、それだけだ。
「理沙さんの歌、私、この先もずっと聞く」
ぽつりと、珍しくウメさんが感傷的な言葉を口にした。こんなモブにまでそんあことを話すとは、ウメさんは随分と優しい主人公だなと思う。
「ありがとー」
だから私は、別にあの曲に思い入れなどちっともなかったけれど、にっこり笑ってお礼を言った。
……相変わらず、へらへら笑って、その場をごまかす私だった。
私は所詮モブで、そして彼女の物語にはこの場で退場してしまうのだ。きっと小説にして一行も満たないような、そんな出会いと別れなのだろう。
それは、アイドルだったころの私が渇望するほどに存在感のないモブらしいモブだったが、けれど。
ちくりと、心が痛んだ。
結局最後までモブだった私は、彼女に何かをするでもなく、ページの一部に埋葬されてそれで全てが終わるのだ。
それは私自身が望んだことであるはずなのに。なぜだろう。なんだか酷く虚しくなった。
例えば、ウメさん事情にもっと首をつっこんで、友人くらいのキャラクターになれたら、こういう時、彼女を引き止めることができたのだろうか。
例えば、好きだと作中で告げれば、もっと深く彼女と関われることができただろうか。行かないで死なないでと叫ぶ立場になれただろうか。
それは私の望むモブではなかった。
そんなことをしたらきっと傷つく。わかっていた。今の立場が一番だと。あんなに望んだモブという立場ではないか。けれど。
なんだかモブであることか、虚しいことだと思ってしまった。
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