第3話 モブの過去
「ただいま」
ウメさんがそう口にするようになったのは、一緒に暮らすようになって一ヶ月がたったころだ。
すっかり慣れたというようにその言葉を紡がれると、まるでここがウメさんの帰る場所の様でこそばゆい気持ちになる。同時に、思っていたよりも長くここに滞在しているなと、意外にも感じていた。主人公というのはどのくらいモブのところに滞在するものなのだろう。それは、私にはわからないことだった。
ただ、今日ももれずにウメさんは「ただいま」と口にして、それに「おかえり」と返すのは嬉しかった。
ただいまとおかえり。
それは当たり前の言葉だったが、私には憧れのものでもあった。だから随分と、こそばゆく、嬉しく感じるものだった。
そういえばウメさんがこの国の技術や文化に戸惑っているところを見たことは無い。ただいまとおかえりもそうだ。この国ではそういう挨拶をするということを、当たり前のように知っていた。
普通に電話もレンジも冷蔵庫も使えるし、自転車にだって乗れる。私に札束を寄越してきたことはあるが、買い物で躊躇している様子は無い。要するに全くの異文化圏から来たわけではないようだ。つまり、異世界の住人ではなさそうということである。
とはいえ、今時の若者文化に詳しいというわけではないらしい。
「さっき、理沙さんがテレビに居た」
夕食を作っていたら、テレビを見ていたウメさんにそんなことを言われた。私の顔を見てもなにも反応がなかったので、多分芸能関係は疎いのだろうなと思っていたが、やはりそうであったらしい。
「赤いちっちゃい帽子を被ってて、歌って踊ってなんか凄かった」
赤いちっちゃい帽子ということは三年前の人気絶頂だったころの歌番組だろう。まったく実用的ではない帽子は、単純に私の可愛さを引き立たせる為に作られたものだ。キラキラの笑顔を振りまきながら、なーんでこんなところで歌って踊ってるんだろうと疑問に思っていたころのことである。日に日にその疑問は膨らみ、一年後に足を洗った。何から、と、いわれれば、つまり。
「あの頃はアイドルというのを仕事にしてたんですよねー」
ということだ。
売れれば手っ取り早く稼げるという理由で入った世界だったが、どうにも私の性分とは合わなかった。どうやら才能というのはあったらしいが、それが反対に辞める理由にも繋がった。考えてもみてほしい。四六時中誰かに見られ監視されネタとして消費されていく感覚を。
それが苦痛ではない人もいるだろうけれど、私は四年で相当応えた。ただのモブとして世界の片隅で生きているほうがどれだけ楽か。
そんなわけで、今は正真正銘、どこにでもいるモブである。
「理沙さん。綺麗ですよ。もうやらないんですか?」
ウメさんが珍しく興奮気味に話してくる姿を見るのは楽しいが、しかし、ここは譲れない。
「やりませんよぉー。今はしがない清掃員ですから」
大学の清掃員の仕事に着いたのは二年前だ。アイドルを辞めて直にするりと滑り込んだ。私はこの仕事をだいぶ気に入っている。
まず、比較的朝早くの勤務であること。学生や教授がくる前の五時代から正午あたりまでの勤務なので、人に会うことがあまり無い。
次に、基本、単独行動であることも良いだろう。誰かと摩擦が起こりようもなかった。まれに二人組で働くこともあるが、せいぜいがそのくらいだ。
最後に、清掃員という仕事柄、基本的にマスク着用で帽子を被り、顔を見せることがない。そして清掃員の格好をしていると、不思議とほとんどの人は四十代以上だと勘違いする。差別的な考えかもしれないが、若い人が働いているイメージが少ないのだろう。モブとして溶け込んでしまえるのだ。
故に、ほんのちょっと前までオリコンチャートに入っていたアイドルだとは誰も思わないのだ。
人に見られることが嫌でやめた私からすれば、あまりにも快適が過ぎる。だから。
「今の仕事が気に入っているので、もう、歌ったりおどったりはしないですね」
その言葉は本心だった。
「……理沙さんはカワイイので勿体無い気もします。……歌も良かったですし」
ウメさんはそう言ってくれるが、私は頭をふるう。
「私よりウメさんの方がカワイイですよ。そんなウメさんだってアイドルをやってないんですから、私もやる義務はないですよ」
思ったままに口にした。
そうだ。私はウメさんに会った時、そういう意味でも救われたのだ。
それまでの私は無駄に顔が良くてアイドルなんてやってて、そのくせ、人に見られるのがいやで、逃げるようにそこをやめた。いつもマスクをして顔を隠して、カワイイなんて言われるのが嫌で。まるで物語の主人公のような自分の顔も、その生き方も嫌だった。けれど。
ウメさんは、完璧な、誰もが認めるような主人公だった。
可愛くて愛らしくて何かを抱えていて。
私よりもずっと、アニメや漫画に出てくる主人公だった。
その瞬間に理解した。
私はモブでも良いのだって。
私は私が望めば、別に可愛かろうが元アイドルだろうが、モブでも良いのだって。だって、私よりもずっとウメさんのほうが主人公だった。だから。今のこの立ち位置を気に入っていて。
そしてそういう立ち位置にいさせてくれるウメさんのことが好きだった。
……そのモブらしさに救われても居た。だから。
「私はウメさんと一緒にいる今の生活が気に入っているんです。アイドルなんてやってる余裕は無いですよ」
そう言って、笑えば。
珍しく、ウメさんもぎこちない笑顔をくれた。
それだけで十分だった。
ウメさんがどこの誰で何をしているかなんてどうでも良いし。
私がどんなアイドルでどれだけ人気があったかなんてことも、ウメさんは知らなくてよいことなのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます