[5] 生
突如すべてが加速を始める。目に映る景色そのものが脈動を得る。
概念という概念はすべて遥か彼方に吹き飛んだ。グリップを右手で握りしめ、左手で安全装置を外す。カチリと鳴らすギミックがあくまでも日常感覚を呼び覚ます。
そのまま左手を右手にそえる。両手でしっかりと狙いをつけた。震えている。当然だ。なんだってんだ、怖いんだろ? それだけだ。
ゆらゆらと落ちる布切れの向こうで、鋭く何かが砂場を抉った。
重みのある大きな足音は前方から迫りくる。依然、震えは止まらなかった。もう二度と止まることなどないかもしれない。それでも彼は引き金をひく。
きっと弾は当たるのだから。骨の中を衝撃はぎんぎんに伝っていく。
ぎしぎしと音をたて神経が悲鳴を上げた。叫び声などきこえない。
銃声が尾をひく最中、青いマントは地面に落ちる。バカに赤い血まみれの火の玉に、目を見開いた。穴の開いたスキンヘッドは放射状に体液を撒き散らしながら、倒れ伏す。
サイラスの中には、ためらいもまよいもある。あわれみとかなしみとを持ち合わせる。うれしさとたのしさが隠し切れない。
なによりありありと感じられるのは、自分がなぜ生きているのかという『不可思議』に他ならない!
左後ろですばやく何かが砂を削るのわかった。次第にその音は遠ざかり、小さくなっていく。また別な方向で、重いものがずしりと地面に落ち、深く突き刺さる。
そっと暖かい手でふれてくれる少女をかばうよう、青年は後ろへと激しく一歩踏み出した。背にかかるかすかな呼吸がくすぐったい。右足を軸に回転する体、活性化する筋肉に視線が遅れた。
――重い。苦しい。息が、できない。身体が傾くとともに、サイラスの視界に影がかかった。ざらざらとした砂に触れ、衝撃は熱さと痛さへと鋭く変化する。
眼球間近の灰色の砂粒へと朱がしみわたっていた。左肩が痛い。じくじくと肉が離れていく。血は束縛を失い、流れてゆく。途切れた神経線維は今となっても電気信号を送りつづけていた。
サイラスは気づいていなかったのだ。太った男は二本のうち一本を地面に落とすも、残りの一本をしっかりと握りしめ、すでにその背後へ迫っていた。そんな間合いで振り向くこと、それは大きすぎる隙でしかない。
乱暴に頭髪をつかまれ、無理矢理に顔を上げさせられた。逆光の最中、極限までやせこけ、落ち窪んだ眼球が見える。
相対する顔面には引きつった笑みが薄皮一枚に張りついていた。乱れた吐息に正面から犯される。作りものみたいに平坦な有色は、今にも血が噴出しそうに張り詰めている。
そこにある感情がなんであるのか、サイラスにはわからない。知らないはずはなかったのに、まったく忘れてしまっている。一際高く鋭利な影は空に伸びていた。
いつ落ちてくるかなんて、それは誰かの気分次第。まるで他人事のよう。
黒い少女が眼と口とを開き完全に静止しているのが、遠い世界の出来事みたいに、サイラスには一瞬だけ垣間見えた。まったく同時に、向かい合う二組の眼球の間で、介在するものは例外なく消えはてた。
サイラスに向かって掲げられる刃は、いずれ下ろされるのだろう。そうすればどうなるのか、その構図はあまりにわかりやすいものだ。かすかな意識がサイラスの中では揺れていた。
左腕は動かそうにもどうにもならない。なら、右腕はどうだ? 力を入れてみる。動いた。右手を握る。硬い感触がかえってきた。大切な右腕、今だって大切にすぎる右腕、音を奏でるための右腕。
するどく熱い息が頬にあたった。鋭い何かが近いことをサイラスは本能的に理解した。全身を一様にインパルスは爆ぜる。右腕は単純な動作を繰り返すだけの機械となって、銃口をやせた男のほうへ向けた。
純粋な混沌、統制された確率の世界。感じたのは熱くて痛いということだけ。肩口からねこそぎに右腕がぶっ飛んでいく。体の中で骨がちぎれて、肉が割れた。生臭さで鼻腔がみたされる。
ねっとりとした触感が顔面全体を支配した。眼球すら動かすことはできない。映るのは一面の青空、そのど真ん中で太陽が威張りちらしている。
サイラスの鼓膜を裂いたのは自分のではない誰かの断末魔の叫びだった。
発砲の衝撃を押さえきれず、サイラスは仰向けに倒れる。背に触れるのは無限の砂粒で、沈んでいくみたいで心地よい。左肩は深く抉れ、右腕はずたぼろに傷つき、腹の中には何もなかった。
ひどく冷たい。
飢えた男の最後の一撃は狙いを外されるも執念なのか、兵士の下腹に突き刺さっていた。そこからはもう何も流れることはないのだろう。もう何を流すこともできないのだろう。
感じる風は少しだけこごえ湿っている。サイラスが歩いてきた道から、それは吹いてくる。自分のものとは信じられないくらいに、呼吸は浅く弱弱しかった。
心臓も頑張っているようだが、限界なんてものはとっくにこえてしまっている。
砂を通じてサイラスは振動を感じとった。その瞬間に視界は揺らぎ、喉元を冷たい何かが通っていった。
ああ、そうか。喉が渇いていたのか。体は水を欲していたんだ。カラッポの器を涼しい流れがつたう。大きく開いた傷口からはとめどなく血があふれ、いくら水をくらおうとも満たされることはない。
歌をうたってくれ、この世界の落伍者の為に。
その言葉が届いたのか届かなかったのか、体内へとしみこむ水はその勢いをふいにゆるむ。砂漠の世界。生者が為の光をさえぎり、視界に映る曖昧な影は遠くなる。本当にただ聴きたい、その想いだけが残った。
心はどこまでも透き通っていく。光はそのうちをつき抜け、無限の反射を繰り返す。それは人を冷たくひきつけながら、絶対に硬く拒絶する。
広がるは冷徹無色の結晶世界。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、第六感までもを限界無く高め増幅する。透明な暴走を引き起こす。永遠の孤独がなんであろうが、幻想世界は感覚を照射する。
きらきらと流れる光の中、ゆらゆらと空気はうねり、ひたひたと空は揺れる。無造作に置かれたオブジェ、結晶の一つ一つが異質への扉を開く。
快感に飽和され、すべての思考が深化する。
もうすぐ砂嵐は訪れる。迷っている時間などない。即刻、歩き出さねばならない。生きる意志があるのならば。
それだけはなんとしても少女に伝えなければならなかった。そして、それを少女は実行しなければならなかった、たった一人で。
サイラスの頭の中では、世にあでやかなリュートのしらべが響き始めていた。求めても手に入らなかった、とうに捨ててしまった理想の形があった。
だがそこに光はない。それはすでに消え果てたものたちの残り香なのだろう。遠い昔、まじわることのない世界からの贈り物だ。
ぐるぐると心は回る。彼の横で歌っているのは誰だろうか? 弾けば弾くほど世界は遠ざかり、狭量なものと変わり果てたというのに。そんなことはもうなんだってよかった。
暖かい何かが手に触れ、硬い悪魔をさらっていった。
結晶世界は崩れさり、死にゆく意識がとりのこされる。聞き慣れたあの小さな足音が次第に遠のいてゆく。その歩調はいまだそろわず、不規則なリズムを刻む。
唐突にノイズが混じる。砂の上を這うような摩擦音が、足音の邪魔をする。その注意深きにすぎる音階は、飢えに飢えた死にかけの獣の生き残りだろう。
小さな足音はたち消え、かわりに雑音はわめきちらされる。それらの言葉は断片でしかなく、理解からは程遠いものだ。再度何かが砂をこすった。
十分な静寂ののち、ふいに激しく、殺戮の重低音はなりひびく。ある一人の兵士にとって、それはなによりの福音だった。
砂に刻まれた記憶 緑窓六角祭 @checkup
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