[4] 兆

 朝方、空を見渡せば都の方角に、遠く黒い雲が漂っていた。昨日から空気にわずかな湿り気が感じられる。それは乾季から雨季へのうつりかわりを思わせるものだ。

 不吉な予兆を振り払うかのように、サイラスは進む速度を少しだけ上げる。歩調はかるい。皮製のブーツも重さを感じさせない。

 目的地にも近いし、迷う心配もない。食料や水も十分な量が残っている。傍らを歩く少女は時にバランスを崩しもするが、おおむね順調に二人は砂漠を進んでいっている。


 そびえたつ山岳地帯の合間、高い山と山の間の鋭い峡谷、剥き出しの岩場の中につくられた砦とその裾野に広がる小さな街こそが、前線と呼ばれる国家間戦争の一つの拠点である。

 もともとはただの貧しい辺境にすぎなかったようなところだが、偶然なことにそこは敵地と近く強固な守りを持っていた。ただそれだけのことで村は町へと変わり、そして都市へと変質した。

 無限に広がる砂海に埋もれ、ちらほらと岩石が見受けられるようになる。それこそ目的地へと二人が近づいているという、なによりの証拠である。

 刺々しくありながら鈍く、鈍くありながら硬く、無骨に連なる岩々は、砂漠の中で明らかな異物としていきりたつ。かすかなうねりしか持たない砂漠では、唯一日差しを遮ってくれる。


 結局のところ、運が悪かったとも油断していたともいえるのだろう。ただ一つ確かなのは、気づいたときにはもう危機から離脱するに遅すぎたというだけだ。

 二人が進むべき方向には一際大きさを目立たせる一枚岩が立ちはだかっていた。ひたすらに激しく感じられた気配は、逃げ場なく二人を取り囲んでいた。

 サイラスの体を緊張が伝う。両手をきつく握りしめた。そこに漂う雰囲気はオアシスの夜に見た幻と似ているようでまったく異なっていた。

 はりつめた空気に覆われる。そばに立つ少女の息吹がより強く感じられた。震えの止まらない右足をサイラスは自らの拳で殴りつけた。


 ひっそりと一切のぬかりなきよう、すすりなくみたいに砂を削る音がした。

 前方から一人、背が高く異様にやせこけたスキンヘッドは、その薄い影の中から姿をさらけだす。瞳の色は獣に染まり、だからこそひどく人間じみているように、サイラスには見えた。

 自分にすがりついてきた少女を彼は背後にかばった。さらにサイラスは周囲へと目を動かす。

 左と右後ろからも同様に、研ぎ澄まされたばかりの刃そのもののような、ぎらついた気配が二つ現れてくる。背の低い男と太った男。それぞれが欠け落ち、力を失った武器を携え、囲われた中心へとにじり寄ってきた。


 ゆったりとした動作で襲撃者との距離はつまってゆく。少しずつ閉ざされた円は狭まる。

 その遅さは決して余裕から来るものではない。絶対に獲物を逃すまいとする、いくえにもかさねられた慎重さが三人の男の共通として息づいている。

 サイラスの背により一層、細い体が密着してきた。いったいどうすればいいというのだろう? サイラスの内を迷いはすばやく駆け抜けた。

 護衛の任務なんてものに今更なんの意味もありはしない。自らを鍛え獲得したものでないにしろ、彼一人なら逃げおおせることも難しいことではないとわかっている。

 が、兵士としては新米も同然で、戦うとなれば自分など刃物を持った素人に等しいとも理解している。


 迷いながら同時にサイラスは、足元の砂がうごめき体を這い上がってくる、そんな感覚に襲われていもいた。

 自らが立っている場所をいやでもかえりみてしまう。やはりこの砂の海は何一つ与えてはくれないのだ。ただ摂理をなりたたせるためだけに奪ってゆくことをする。

 より明瞭にと線は紡がれ、より確実にと色は重ねられる。真実に近づこうとする偽のリアルは、際限なくその彩度を高めていく。

 ピシッと、何の前触れもなく小さな亀裂が思考の中に入った。浮かび上がる映像は時を経るにつれ鮮明を失う。ついにはがらがらと音をたて崩れ去った。


 貧弱な青年兵は筋肉のあまりついていない右腕、その先の細く長い指を優しく自らの胸元に走らせた。

 肉体のそれではない、一切の熱を持たぬ鋼鉄の感触が抵抗となって体中を駆け巡った。

 隠密性、携帯性を重視しそれは作り出された。長い銃身をできる限り廃し、面倒な操作を極力自動化、なおかつ威力を減じさせない。それでいて、大きさは手のひらに収まってしまう。

 配備の際、通達された事項はわずかでしかない。弾数は六発、予備は無い。発射のためのアクションはロックを外し、トリガーを引くことそれだけ。


 サイラスの前に立つやせた男は懐をさぐると、さび付いた諸刃の剣を斜めに構えた。同時に左方で背の低い男はナイフを、右後方で太った男は片刃の剣を二本、その手にしっかりと掴む。

 サイラスは胸に当てたままの右手を、自らの左手でゆわりといとおしげになでつける。自分などというものはたいして筋肉もついていなければ、敏捷性にすぐれているわけでもない。

 戦闘に慣れていることもなければ、確かな判断力も持ちえていない。


 ぎゅっとマントのすそはひっぱられるのが、サイラスにはわかった。よわよわしい息遣いははっきりとこの耳に届いていた。

 それでも頭の中はとうていまとまりそうにない。砕け散った瓦礫はそのままに散り乱れている。

 誰をなぜ犠牲にするのか? 誰をなぜ犠牲にしないのか?

 なにもかもがはじめから明らかに定まっていたならば――なんとも楽な世界であったことか。不意に笑いがこみ上げていた。サイラスはそれを押し殺すことに成功した。


 三人の男は依然としてサイラスのもとに隠された武器を警戒し、長剣の間合いから一歩遠ざかった距離をまもっている。

 まったくバカバカしいじゃないか!

 この世界に線などない。サイラスの前ではすでに、そんなものはゼロに等しい。体をつつむ一枚布を勢いにまかせ取っ払った。

 刹那の暗闇の中、背に感じるはぬくもりとつよさ。右手に得たのはどこまでも非人間的な鉄の塊。そのとき、青年兵士は生きていた。

 世界中の誰よりも生きていた。

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