[3] 砂
風はわずかに湿り気をおび、サイラスはより不機嫌をつのらせる。少しだけ抵抗のある砂地を踏みしめ、前線へとひたすらに歩を進める。
あれからもう一日はたとうというのに、低く冷たく乾いた泣き声は、サイラスの深いところで今もって響く。どうにも足元が定まらない。視界は左右に揺れ動いている。
軽い足音は背後に遠く、相変わらず一定の距離を保ってついてくる。早く整わないリズムは危なっかしさを感じさせる。
うつぶせになって大粒の涙を流す少女。見てもいない映像はチープなつくりでうそっぽかった。
あまりのそらぞらしさに現実と幻想の境界は侵され、茫漠のうちに意味を失くしていった。
サイラスの思考は螺旋を描いていた。その中心にまさしく、少女は孤独にひっそりとたちすくむ。
閉ざされた暗闇の中、シャープな輪郭で存在を主張しようとする。
だが、その像はどこか欠落してしまっている。
なにがそう思わせるのだろう? その漆黒の瞳が遠く手の届かない場所でゆらいでいるから?
聞きなれた足音が途切れる。一人分の質量が砂の上に倒れこむ音がした。砂漠の中ではじめて、一つの音がしっかりとサイラスの鼓膜を震わせた。
左足を軸にして、前に出そうとした右足を後ろへと向けていた。そこでサイラスの体は硬直した。
砂のうねりは少女の姿を隠している。
無意味の砂がいくらすべてに厳しかろうと、それらはひどく緩慢にしか事をなすことはない。もう一度前を見据えることができたなら、変化のない風景はえんえんとつづいているはずだ。
わざわざなぜ振り返らねばならないのだろう? どうすればいい?
一歩、サイラスが踏み出したのは『意味』というものが存在する方。
二歩目、三歩目と体はほぐれ、だんだんと足取りは軽くなっていく。ついには駆けだした。
その道のりは長かったのか、それとも短かったのか? 倒れ伏した黒い衣が眼に入る。
サイラスは自分の出す乱れた呼吸に驚いた。少女はさす影に気づく様子はなく、ほそい腕に力を込め、立ち上がろうとしていた。
なんのてらいもなく、すっとまっすぐにサイラスは手を差し出すことができた。
兵士らしくない、いやに繊細な右手をちらっとだけ見て、少女は視線を下に戻した。すこしの間をあけて、彼女はうつむいたままゆっくりと小さな右手を伸ばしてくる。
手と手が重なり合う。確かな力が握り返してくるのをサイラスは感じた。立ち上がらせる力と立ち上がろうとする力――ぴったりと合う二つによって、倒れてしまった歌姫はすっくと砂の上に立ち上がった。
少女は目をそらしたまま表情を隠し、衣服についた砂を払いおとす。
もともとわずかしか付いていない乾いた砂粒は簡単におちてしまう。それでも彼女は無言のまま自分の体をはたいている。その動きはだんだんと鈍くなっていき、少女の手は止まり下ろされた。
ようやくしてためらいがちに、少女は繊細な顔を上げていく。サイラスの視線とでくわすと途端に顔を下ろした。上げては下げる、それを何回か繰り返す。
やっとのことで彼女は上目遣いに彼の方を見る。ゆれうごく瞳には不安の色が濃い。歌姫と呼ばれた護衛対象は兵士にむかって、小さくゆるやかに頭を下げた。
こらえきれなくなって、サイラスはすこしだけ口の端をつりあげた。今度は彼が目をそらす番だった。あらぬ方向へと視線をやり、握ったままの右手に気づきあわててはなす。
時間をかけて自分を落ち着かせたあと、サイラスはふたたび歩き始めた。隣を歩く少女と歩調を不器用にあわせながら。一歩一歩を確実に前へと進んでいく。
太陽は空を静かに駆け巡り、夕は過ぎ、夜は訪れる。適当なところで立ち止まると、二人で協力してテントをたてた。ついで、拾ってきた木々を組ませて焚き火をつくる。
簡単な夕食に火であぶった干し肉を一切れずつ。硬い表面を突き破れば、熟成された肉汁があふれ出す。暖かな食感を味わおうと、サイラスはそれを何度も何度もかみしめた。
夜はどこまでもすみわたり、一面の星空を映し出す。すぐに眠ってしまうのはもったいなかった。
二人は自然と星を眺める。小さく滑らかな砂粒の、そのひとつひとつが互いを避けあい、加えられた力をこの広大な砂海へとあまねく分散させてゆく。
砂の上で得られる感触はかすかにすぎて、自身がこの地上にあるのだということをふいに忘れてしまいそうになる程だ。一切の水分をなくした大気は夜に凍てつき、そこにさらされた肌の感覚を奪う。
限りなく意味を排除され、装飾のとりはらわれた視野には世界の広さと無情さばかりが影を重ねる。そこに生命の姿はない。
サイラスに感じとれるのは自分自身、そして傍らに座る少女の存在。二人の呼吸は低く抑えられ、身体を駆る心拍でさえ曖昧として溶解してゆく。
こうごうしく燃えさかる炎が、たった二つの輪郭を浮かび上がらせていた。飛び散った赤い欠片は、刹那に弾けて消える。
ゆらりと濃紺をながしこまれた天空は、不思議なゆらぎとうねりとを見せ、数え切れないほどの光の粒をとらえる。手を伸ばせば届くと思える、けれど手を伸ばしても届かないとわかっている。
いくら手を伸ばそうと届きはしないと受け入れる、それでもあの光に届けと手を伸ばさずにはいられない。無限に近い光明は藍の夜に散りばめられて、静止する空間をゆたかに彩る。
そこに見出せる際限のない感情の渦にひたされ、ありとあらゆる境界が崩壊する。パチッとひときわ高い音を最後に、揺れる熱塊はかきけされた。
最早、鼓膜をふるわすものはない。線という線の存在がゆがみ、ねじれ、その強さをなくしていた。感覚は一瞬にして、夜そのものへとかえっていく。
究極の黒はあらゆる感覚をかねそろえる。
何もかもを循環のうちに組み込み、はたらきだす。見ることはできても観ることはできず、聞くことはできても聴くことはできず。その中でサイラスの心は所在なげにただよっていた。
それは次第に形のない不安となって、ゆっくりとサイラスをおしつぶした。意識を現実に回帰させた青年兵士は、眼球を左へとまわす。
少女はフードを下ろして、そのつや深い黒髪をあらわにしている。どんな熟練の職人の技さえかなわぬほどほそくながくなめらか。どこまでも透きとおりながら、すべての光を遮る。
さらに、きめこまかくなめらかな肌を、少女はおしげもなく冷たい空にさらす。そして少女の深遠の双眸は、その焦点を無限の風景にあわせていた。
世界にみせられ取り込まれようが、彼女はそこに座り、じっとしていた。
すべては一瞬きりのことでしかなかった。けれども、そこに流れるセンリツはサイラスを強く硬直させた。
罪悪と嫌悪の混合物の矛先は自身へと照準をあわせる。いくら感覚を捨てようとしたところで、彼の元にカタルシスは二度と訪れない。
存在を透過する光にあって、答えというものがいかにいびつであるか理解した。覚悟と諦念、そのどちらも自分にはない。何もない夜――けれど、そこには全てがあった。
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