[2] 水

 熱くとどこおる大気に、肌は痛みを感じるより麻痺へとおちいる。左足を前に出た右足よりも先にやり、右足をその左足よりもさらに伸ばす。

 まとわりつく不快感に頭をはたらかせること自体が、サイラスには苦痛に思えてならなかった。必要のないものを切り捨て機械的な運動に身をまかせようとする。

 だが、後ろからついてくる微弱な足音がやはり自己の埋没を妨げていた。


 見上げた空に太陽は今日も飽きずに燦燦とほくそえむ。遠く影の中を揺らぐように青い虚像がうつって消える。サイラスはその映像を見逃しはしなかった。

 鼻の奥をつんとくすぐる水の香りが、それが幻ではないと教えていた。知らずサイラスの体は前に傾く。ひたすらに歩をすすめてゆく。

 折り重なる緑の葉々はみずみずしくしげり、乾き果てた世界のなか精気を存分にふりまく。淡々と、期待に胸を膨らませながらも、かろやかに足は前へと動いた。

 意識は半ばもうろうとしていたものの、すぐそこにあるオアシスだけは明確に像を結んでいる。


 だからこそ――その違和感が疲れの見せた勘違いだったというのはありえないことだった。サイラスはゆっくりと歩くのをやめる。立ち止まって目をこらす。

 安らぎを目前として茂みの一つが揺れるのを、間違いなく見てしまったのだ。それは自然によるものでなく、あきらかに人為的な運動だった。

 すべての命を刈り取ろうとするこの砂漠は、けっして安全な場所ではない。奪い取り、塵と返すことのみに特化し、取り巻く世界そのものが極悪な生物に近い。

 得られるものなど無いに等しい異様に巨大なゼロサムゲーム。


 角度を変えて見たところで、濃い茂みに相手の姿を確認することはできない。深く息を吸い吐きだす。サイラスは直線的なふくらみを見せる胸部に弱く触れた。

 そっとやわらかく手を重ねたにもかかわらず、あまりに硬い反応に指先はあわく痺れを覚えた。追いついてきた少女はいつのまにか横に立っていた。

 サイラスのほうを見ることはなく、ただオアシスへと視線を向けている。何の言葉を発することもない。


 ため息をもらしてから、サイラスは手を下ろし腰の辺りを探った。大き目のナイフをその手に掴む。興奮する筋肉を抑えようと、唇をつよくかみ締めた。

 そのナイフ、あまりにもフォルムは無骨。とてつもなく鋭利。握るとひどく体に馴染む。

 つづいてサイラスの中に、感触がリアルに浮上する。何もかも心にたまった澱をそこらじゅうにぶちまけたくなる。無理矢理に足を動かすと、サイラスは一歩だけ前に進んだ。

 茂みの揺れは一度きり、以後一切の平穏を保っている。


 走り出したい衝動を押し殺す。ゆっくりと平静を装って歩いてゆくしかない。心臓はバカみたいにうるさく騒ぎ立てる。気に入らない。

 少しずつ、目的の茂みに近づく。震えが押さえきれなくなっていく。冷たい刃に光が反射する。すぐそこに敵は潜んでいるという状況下、次になにをすればいいのかわからなっていた。

 砂粒が形となり体を無限に縛り付けているかのように思える。一歩踏み込んで刃を差し出せば、それでいいのに。それだけなのに。


 思い切ってかたく、サイラスは両眼をとざした。

 騒々しく、気が狂いそうになるほどに、体の各部がざわめきはじめる。肌を焼く不快は曖昧な面ではなく、細かな点の集合に変化した。

 見えない世界でたったの一撃を――そのずぶといナイフをサイラスは前へ前へと突き刺した。かえってくるのはなまなましい『食感』だった。

 生命を排他する犠牲の紅は、激しく肉を抉っていった。混乱した命令系統はゆっくりと両瞼を開かせる。サイラスの目には砂粒ひとつの境目がくっきりと映る。

 何もかもが明瞭に区切られている。静止に限りなく近いその場所は、感覚と感傷とを追い出し、着々と理性を浸潤した。


 倒れたものはこの世界の犠牲者の最後の残滓だった。定められた決定的な違いをくつがえすことができず、搾取され利用されつづけたものの、死にたえる余生にすぎなかった。

 年老いた一匹のラクダ。赤く染まっていく毛並みは色つやなくざらつく。それでいて微弱なしなりすら持ちえない。茶色の毛はところどころ抜け落ちる。痛々しく乾ききった地肌をさらす。

 心底おとろえ精気を空にする。まさしく無価値であるとサイラスは思ってしまった


 慌てて目をそらす。振り返ったところ、サイラスから数歩下がって少女は立っていた。

 その像はぼやけて、ぶれて、ふるえて、みえる。少女の口もとだけがクリアに浮いている。無言のていを強調する。

 砂漠の風は歌い手の喉を傷つける。ただそれだけだ。

 誰の同意を得ることもなくラクダの死体を葬ると、サイラスは湖畔にテントをたてた。歌姫の少女は目を合わせようとすることすらなく、早々に彼の前から姿を消していた。


 質素に過ぎる夕食の後、ずっと遠く地平をサイラスは眺める。目の端には少女の眠るテントがいやでも入ってくる。動物の皮をはぎとり作られたソレはひどく曲々しい。

 自活する自然の中、浮き立って異質と不和とをあらわす。血の紅に夕陽の赤が重なっていく。強烈なせめぎあいの最中、誰かが彼を見下ろしている。

 向けられる平坦な瞳は日常に飢えながら、恐怖におののく。刃を握る手は激しく震えながら、さらに止まらない震えに怯える。


 抜けていく力の最後を振り絞り、サイラスは自分を見下ろす何かへと手を伸ばした。

 すぐ近くにあるはずなのに、まるで届きはしない。どころか、そばに立つのに遠い存在は自分だけの震えに囚われていて、まったくサイラスのほうには焦点を合わせようとはしないのだ。

 サイラスの肉体は急速に統率を失い、乾いた風の前に崩れ去る。そんな快楽をかみしめながら、意味のない塵へとかわりはててゆく。

 分散していく最後の意識、サイラスの中の見下ろす者は、無意味の砂を残酷に踏みつけた。

 誰かの嗚咽が聞こえてくる。深層から浅層へと意識はゆり戻された。泣き声は現実として耳に届く。誰かがこの砂漠で泣いているのだ。

 その意味はまったくもってわからない。

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