砂に刻まれた記憶
緑窓六角祭
[1] 青
そこには何一つありえなかった。
両脚に力を込めしっかりと踏みしめたところで、曖昧茫漠とした感触ばかりがつたう。無味乾燥な砂粒は存分にありあまるも、誰ひとりとしてそれを求めるものはいない。
ざらついた風は吹きすさび、生者からも死者からも平等に精気を奪ってゆく。何であれ行き着く先は塵でしかなく、無意味の砂は着実に世界を侵蝕する。
どこまでも広がる二色の風景に囲まれ、濃紺の一枚布はゆるやかにはためいた。砂除けのマントはひるがえり細身のシルエットをさらす。
背丈は平均的な成人男子よりもやや低い。肉付きはよくない。隙間にのぞく焦げ茶の瞳は、空へと鋭い視線を向ける。彼――サイラスは前だけを見据え、砂漠を歩いていた。
あたりかまわず熱線をばらまく太陽にいらだちを覚える。硬い靴底で力まかせに削っても、砂はかすかな音しか届けない。時に自分の出す摩擦音でさえ、わからなくなる。
そうでありながらサイラスは、後ろから聞こえる小さな足音をどうしても忘れることができなかった。
運が悪かったのか良かったのかといえば、良かったということになるのだろう。都市から前線へ。車両を用いて護送して行くはずだった。
予定はなにが原因だったのか、あっさりと崩れ去る。爆発した車から逃げ出せたのは、とうの護送対象とサイラスだけだった。
背後から響く足音の早いリズムに、その歩幅の狭さを連想する。不規則な歩調は、走っているわけでもなければ歩いているわけでもなく、少しだけ無理をしている。
サイラスが無視しようとすればするほど、その音は大きく聞こえるようになる。ふいに足音は一度だけ低く鳴り響いた。それを境に途切れてしまう。
乾いた大気を震わせるのはサイラス自身の硬い足元だけとなる。灼熱の砂漠で一人きり、それはより一層の無音をひきたてた。
空の頂でむやみに威張り散らすバカの姿がうっとうしくたまらない。一切の変化をゆるされない風景は退屈という言葉が似合う。目的意識と三半規管だけが自分は前に進んでいるのだと証明してくれていた。
いくぶんかの間を置いて些細な砂の走りは強制的にサイラスの意識へと潜り込む。遠くうしろの足音はみだれがちにそのペースを上げては大きくなっていく。
激しい足音は時を経るにつれて収まり、ふたたび走りから歩みへ切り替わった。二人のあいだに開いた距離は途切れる前と寸分とて違わないのだろう。
彼の耳にはまた極小の歩みが伝わってくる。ようやくそのときになって、自分が足を速めていることにサイラスは気づいた。慌てて速度を元に戻してから、ゆるやかにまた歩き始める。
目的地、隣国との戦争の前線基地へはそう遠くないとわかっている。急がずとも人の足で三日程度の旅程だ。何度も通りなれたルートであり、迷う心配もないとわかっている。
なめらかにすぎる砂粒は圧に逆らうことなく流れる。歩くという感覚がだんだんと希薄になっていく。意識は狭い世界へと閉ざされた。身体は自動的にはたらきだす。
小さな足音は体の中で無限にこだまする。わけのわからない感情に、前方への進行速度は不規則につりあがっていった。
一面の白色のなか、赤くて丸い巨大な何かは毒々しくうなる。地上にあまねく無意味の砂は、元の形に戻ろうともがき苦しむ。
死者たちは掴んだ足首を決して離そうとはしない。居場所を逆転させようと、必死になってひきずりこもうとする。
心臓は激しく拍動を繰り返す。血液は外へと浸されてゆく。
天界でほくそえむ紅の王は優雅な軌道を描いて、静かに舞台裏へと消えた。肌にあたる大気がやけに凍えていて、はたと気づけば暗闇だった。
サイラスは立ち止まり背負った荷をおろした。水筒をとりだし喉を潤しながら、あたりをざっと見渡す。
ちょうどいい。リュックから骨組みを取り出す。簡単な砂除けを組み立てていく。夜の砂漠は危険にあふれている。あえて行動する理由もなかった。
立ち止まったサイラスのもとに、小さかった足音は少しずつ近づいてきた。姿を現すまでにそう時間はかからないだろう。
任務通達の際、護衛対象についての説明なんてろくろく聞きもしなかった。あとあとまわってきた書類も即座にくず入れへと投げ捨てた。
兵士として働くこと、それだけが重要で他の事に関心を持つ余裕なんてなかった。
視界の隅で黒い何かが揺れ、波うつ。意識の端から忍び込んでくる。首を動かさず視線だけをやれば、闇色のマントをかぶった影がぽつんと立ち尽くしていた。
その身をつつむ黒衣よりも遥かに色濃く、遥かに深く、遥かに遠い、無限の双眸。まるでどこまでも肉体が吸い込まれ、どこまでも精神を見透かされるような。
身の丈は彼の半分ほどしかなく、肢体も細く儚くうつる。それでいて、やはりどこか凛とした雰囲気をかもし出す。
サイラスはわざとらしく勢いをつけ首を振った。
目をそらした先に、木々はいびつに組み合わされている。
世界が導き天が遣わした最高芸術品、絶対透明旋律、歌姫レイラ――年端もいかない幼い少女は無言のまま、彼のそばに立っていた。
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