6・一方、千年目の錬金釜は

 始めに知ったのは揺らぎだった。

 周囲の何かが揺れ、時にはパチンとはじけ、時にはゆったりとふわふわした感覚がよぎっていく。

 どれだけの時間が経過したろうか。いつしかその「揺らぎ」は音という物だと理解した。音は様々な言葉であったことも理解した。


 そして唐突に、「自分」という概念が生まれた。自分の上の方から聞こえる音、真横で聞こえる音――この瞬間に、新たな命が宿ったと言っても間違いではなかった。


 

 とある錬金術師が使い始めた錬金釜は長い年月のうちに、それを扱う人々の想いを受けて自我を得た。

 陽光ですぐに消えてしまう淡雪が、うっすらと積もっていって形を成したかのように奇跡的な出来事。森の古木に精霊が宿るがごとく、人間の作り出した器物に魂が宿った。



 幾人もの持ち主を経て、錬金釜はより強い自我を得ていった。

 造られてから何百年経った頃かはわからないが、匂いも感じるようになった。この頃になると周囲の人間の言葉を覚え、様々な知識を蓄えるようにもなっていた。

 錬金術師やその弟子――多くの人間の中に混ざりながら、自我を持った錬金釜は錬金術と「人間」を学んでいった。


 魂の宿った錬金釜はただ在り続ける。物も言わず、呼吸もせず。端からそれは、魂が宿ろうともただの物でしかないのだから。

 古いからこそ頑丈で、ただ壊れないだけが取り柄だった錬金釜は、形作られてから千年という途方もない時間を過ごした。



 今日がおそらく自分が造られてから千年目なのだろうと、錬金釜は思った。

 まあ、これといって特に根拠はない。意識が芽生えてからは優に500年は過ぎており、重大な変化が現れるなら、切りがいい千年目なんじゃないかと思った程度だ。


「へえ……器物も百年で魂が宿るって聞いたけど、千年で人の姿を取れるようになったってことかい」


 自分の声を聞くというのも初めての経験だ。声は低めで、男の声に聞こえる。

 腕を伸ばしてみる。思った通りに指が動くのが面白い。何度か握って開いてを繰り返し、錬金釜は満足そうに息をついた。


「不思議なもんだな、そこに俺があるのに、ここに俺がいるなんて」


 身動きする度に、古家に積もった埃が舞って、ボロボロになったカーテンの隙間から差し込んだ光の中でキラキラと光る。かつて見た金の輝きにも似て、錬金釜はしばしそれに見とれた。


「そうだ、人の姿の俺ってどんな顔してるんだ?」


 錬金釜の視線は部屋の隅にあった小さな鏡に向けられた。おっかなびっくり右足を出し、続けてそろりそろりと左足を出す。慣れないせいでふらついたが、無事に鏡の前まで歩くことができた。

 姿見に映っているのは古びたローブの胸元だった。試行錯誤を重ねてようやく埃をかぶった鏡に顔を映すことに成功したが、思わず「はぁん?」とおかしな声が出る。嫌な予感がしつつももっとよく見ようと、鏡の表面の埃を袖で拭った。

 鏡はだいぶ映りがよくなったが、錬金釜はよりはっきりと見えた自分の顔に眉を寄せるばかりだ。


 鏡に映っているのは、青い髪に顔を縁取られた男だ。いかつさはなく、優男と言えるだろう。整えているらしい眉は左右対称で、切れ長の二重瞼の奥には宝石のような黄緑色が輝いている。左目の下に小さなほくろ。少し大きめの口に、薄い唇――。


「テオドールの顔じゃねえか! なんであいつの顔なんだ!? 知ってるぞ、最終的には禿げるんだろう!」


 人間の美醜の基準はよくわからないが、晩年のテオドールが禿げを気にしていたのはよく知っている。きっとそれは人間にはとてもとても辛いことなのだろう。錬金釜には数え切れないほどの歴代の主がいたが、なぜよりにもよってテオドールなのだろうかと胸の中で疑念が渦巻く。


 テオドール・フレーメといえば、賢者の石を生成して金の錬成に至った最高峰の錬金術師であった。後にも先にもあの境地に至ったのは彼しかいない。――おそらくはそういった錬金釜として刻み込まれたテオドールの存在の大きさが影響しているのだろう。


 しばらくバタバタともがいていた錬金釜は、ため息をひとつ吐いて現実を受け入れることにした。外見を変えられないかと少し粘ってみたが、そこまで器用ではないらしい。


「仕方ねえかぁ……だって、結局テオドールが一番だって俺が思っちゃってるもんなー。そりゃあ、テオドールの姿にもなるよなあ。くそー、あいつ、金もエリクサーも作れたのに、結局毛生え薬は作れなかったんだよな……禿げは病気じゃねえってことか」


 長い手足を放り出して錬金釜はぼんやりと天井を見ていたが、それはあまりにも見慣れすぎていたものだったので、よっこらせと声を上げて緩慢な動作で起き上がった。

 声を出して動く方が、よほど目新しくて面白い。


「せっかく人の身を得たんだし、ここはいっちょテオドール仕込みの錬金術で活躍してみっか! いや、それ以外俺のできることってねえわ! うっはー!」


 誰もいない古家の中でひとしきり声を上げて笑い、しばらくして「虚しさ」という感情を覚えた錬金釜はドアノブに手を掛けた。簡単に開くかと思ったが、何かが引っかかっているのかドアノブが回らない。やがて「鍵がかかっている」と気がついた錬金釜は人々を見て覚えた動作で内側から鍵を開けると、ギギギギという軋んだ音がしてドアが開いた。

 開いたドアから外の空気が流れ込んできて、小さなつむじ風を作って消えていった。おお、と些細なことにも感嘆の声が漏れる。


「まずは掃除でもするか」


 掃除は錬金術師の仕事の中でも基礎の基礎と言っていい。清潔な環境なくして、正しい錬成は為し得ないのだから。


 かつて聞き覚えた歌を口ずさみながら、錬金釜ははたきを手にして高いところから掃除を始めることにした。

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