第3話 美奈子

 二年生になった頃、祖父が倒れた。脳梗塞だった。一命はとりとめたが、全身に麻痺が残り、バント練習に付き合うのは無理になった。しばらく夜のバント練習はできなかった。   

 ところが、ある日、美奈子みなこが声をかけてきた。

「ここんとこ、夜のバント練習の音が聞こえてこんのやけど、止めたん?」

 美奈子は、隣に住む同級生で、保育園、幼稚園、小学校も一緒に通った兄弟のような仲だった。だが、中学校になって異性を意識し始める頃になると、あいさつする程度の仲になった。いや、正確には、自分の方から避けた。美奈子は他校にも知られるような美人だった。身長も170センチ、スタイルも抜群。その上、校内で一、二を争う成績で非の打ち所がない少女なのだ。私は、美奈子に異性を意識し始めたと同時にそのあまりの格差の前に、沈黙するしかなかったのだ。

 高校に入ってすぐに美奈子は同級生のバスケット部のエースの田村という名の学生と付き合い始めた。190センチ近い長身で、甘いマスクの今でいうイケメンだった。成績も優秀だと聞いた。私は、もはや、遠くで見つめるしかなかった。二人が手をつないで歩いている姿は、映画から抜け出してきたようで、素直に奇麗だと思った。


「爺ちゃんが倒れたやろ。相手してくれる人がおらんのでしばらくバントは休んでるのや。今は25メートルのダッシュと滑り込みだけや」

「へぇー、そうやったん。なんならあたしが相手してあげよか」

「………」

 突然の申し出に戸惑った。

「女やったらでけへんの」

「いや、投げるんはマシンやけん、男、女関係ないわ」

「ほんなら決まりやね。今晩から始めよか」


 バント練習が再開した。美奈子は決まって10時にやって来た。両家を隔てる低いフェンスをさっと乗り越える時、月の光に照らされて一瞬見える白くすらりと伸びた足がまぶしく、未だにまぶたに焼き付いている。

「勉強せないかんのに、すまんのう」

 と言うと、

「かまんのよ。ええ気分転換になるし、眠気覚ましにもなって丁度ええわ」

 と言って、美奈子は笑った。

 美奈子は、国立の医学部を目指している。理系のトップクラスにいるのだ。医者になって、青年海外協力隊に入るのが夢なんだと照れながら話したことがあった。将来の人生設計をきちんとしているのだ。立派なもんだと思った。自分なんかは、何とかベンチ入りをして甲子園へ行くこと以外、何も考えていない。


 三年生が引退して、二年生の新チームができた。秋の大会が始まったが、新チームのベンチ入りは果たせなかった。

「やっぱ、あかんわ。スタンドで応援や。もうこんな練習やめや」

 その夜もやってきた美奈子の前で弱音を吐いた。

「いや、続けなあかん。まだまだチャンスはあるけん」

 美奈子は両手で私の手を握り、私の目を見つめた。その目はかすかに潤んでいた。

 秋の大会は、県の第二代表になったが、地区大会のベスト4に残れず春の甲子園には出場できなかった。貧打線が原因だった。一年生の時から全国的に名が知られていた投手の児玉を中心の守りの野球がチームカラーで、常に一点を争う緊迫したゲームとなる。あと一勝というところまできて、送りバントを何度も失敗し、1対0で負けてしまったのだ。監督もあせっていた。児玉がいるうちに一度は甲子園に出なければ、責任問題になる。夏の予選が始まる一週間ほど前にベンチ入りメンバーの発表があった。ベンチ入りメンバーの最後に名前が呼ばれた。自分の名前だった。

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