第140話 新しい朝
素肌に直接触れるシーツの感触。
じんわりとした、どこともない全身の疲れ。
そっと腕を広げると、一人分の暖かさの余韻だけが、ベッドの上に残されていた。
少しだけ頭が働き、多幸感と羞恥が流れ込み、あの子の体温が残ったシーツを優しく抱きしめる。すると生きていることを思い出したかのように、心臓の鼓動が意識された。
目が慣れず、差し込む日が眩しい。静かな部屋の外から、メイとアリシアの会話が、内容がわからないほど微かに聞こえる。
「っぅ~~~~……」
声にならない声が、閉じ切れない口から漏れ出る。
関係を進める、ということは二人の距離感の話だと思っていたが、実際には、自分自身すらまるで別人に変えてしまうような、恐ろしいものだった。
どんな顔をしてこの部屋から出て居間に行けばいいのか。まだベッドからも出ていないというのに、そんなことを考えていた。
何分経ったか、誰に咎められるわけでもないので現実逃避してぼーっと過ごした後、私はようやく落ち着いた心で服を着替えて居間へと出ていった。
「カリンって子は、アカネの弟子なんですって。リュアネさんのお家で面倒を見ていて、最近森から出ていったみたいですよ」
「あれで弟子ですか。今回は随分甘やかして育てたみたいですね」
「そうなの? あ、お姉さま! おはようございます!」
「お、おはようございます……」
アリシアはいつも通りだった。昨日は私にあんなことをしたくせに……
いたって平常運転。私だけが勝手にぎくしゃくしている。
「あれ、身体の調子でも悪いんですか? 顔が赤いですよ?」
「べ、別になんでもありません!」
「はぁ……それならいいのですが……」
「おはようございます、お嬢様」
メイとアリシアも仲直りしたようだ。どんな話になったのかは、後でメイに聞いておこう。
「朝食の用意はできております。ささ、どうぞ。それと……」
メイは私を出迎え、そして最後に軽く耳うちした。
「……意外と大きな声を出されるのですね。」
「なっ……ななな、何が!?」
私が耳を押さえて飛びのくと、メイは息を整え軽く目を閉じ、綺麗な姿勢で言葉を続けた。
「お部屋の外まで……いえ。お気になさらず。もちろん、野暮なことは申し上げません。ただ、被虐を好む悪癖は、とことんまで抜けそうにありません。直に触れられず遠くで聞いているだけというのも……ふふ、私も、ほとほと自身に呆れるばかりです」
「……な、何言ってるんですか、ほんと……」
くすっ、と笑った声が聞こえて、私は自分でも笑ってしまうほどアニメのように大げさに素早くアリシアの方を振り向いた。
アリシアは口元を押さえて、失礼、というように軽く肩をすくめた。
自分が自分で無いような感じはしていたが、アリシアさえもまるで大人の女性に一気に成長してしまったかのように、別人に見えた。
「……出かける用事があったんでした」
「お嬢様、私のスケジュール管理上ではそのようなものは……」
「あったんでした! 思い出したんです! 朝食はいりませんから!」
我ながら照れ隠し以外の何物でもなかったが、理解できないのか首をかしげるメイに対して、アリシアは落ち着いた声で語り掛けた。
「メイ、いいじゃないですか。お姉さまはご多忙なんですから。お邪魔してはいけませんよ」
「はあ。では、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「行ってきます……」
謎の大人の余裕を漂わせたアリシアと、私の分だった朝食を立ったままぱくりとつまみ食いするメイに見送られて、私はそそくさと家の外に出た。
何とも見苦しい振舞いだ。勢いで出てきてしまったはいいけど、もちろん予定なんてない。
これからどこへ行こうか……
シャルロッテは、起きるのが遅い私を置いて、きっと先に散歩に出てしまったのだろう。何となく今の気分でシャルロッテに会うのも憚られたので、私は白森の街へと向かうことにした。
白森の街へ箒を飛ばし、手順を踏んで結界を出る。
「お腹が減った……朝食、食べてこれば良かったな」
空を飛んでいる間、独り言は誰にも聞かれることはない。高い空気の中に消えていくのみだ。
白森の街、その中心部に近いミォナの店に私は人目を避けるようにして駆け込んだ。
「わぉ、マリー! 久しぶり!」
ミォナは満面の笑みで出迎えてくれて、私は少しほっとした。朝方だからかお客は少なく、私の相手をする暇はありそうだ。
「お久しぶりです……ご商売の方はいかがでしょうか?」
「ま、悪くは無いけど、油断できないね。物珍しさで来てくれるお客さんは減っているから、こっからが勝負どころかも?」
「すっかりお店の人ですね。安心しました」
「当然! だから、ちょうどいいところに、来てくれたって感じ!」
「はい?」
ミォナは笑顔で手招きした。
「最近店番してもらってなかったからさ」
「はい……はい?」
「あー、いいのいいの。隣に座って、ニコニコしてくれていればいいから」
「は、はあ」
私はカウンターの裏手に用意した椅子に、促されるままに座らされた。
「いやあの、私はこういうのは苦手で……」
「ほい、どうぞ。クッキー」
「む……まさに今欲しかったものが目の前に……」
空腹には抗えない。差し出された小包からクッキーをつまみ、口に入れるといつもの数倍は甘く感じた。
「さあさ、どうぞ。新聞でもお読みになって。どうぞどうぞ」
「はあ、ありがとうございます。それで……どういう魂胆なんですか」
妙に至れり尽くせりな待遇で、私はその裏を疑わずにはいられなかった。
「いや、実はよく聞かれるんだよね。魔法薬やアクセサリーを買っていくお客さんから、今日は白魔女様いないの? とかって。憧れている子も多いんだよ?」
「そうなんですか? 物好きな人もいるんですねぇ……」
「いやいや、マジだって。だからたまにこうやってお店に立ってもらえば、このお店に来れば白魔女様に会えるって噂も広がって、きっとお客さんも増えるはず!」
「それはまた、商魂たくましいですね……じゃあ私は客寄せパンダかぁ……」
こうして二人で喋っていると目立つのか、確かにお客さんたちは物珍しそうに私たちの方を見ている。
そういうことなら、と少し微笑んでみたら、魔法薬コーナーにいたおじさんは素早く視線を逸らしてしまった。
ミォナが期待する効果があるとはいまいち思えない。
「まあまあ、ほら温かい飲み物などもどうぞどうぞ」
「む……まさに今欲しくなってきたものが目の前に……」
少し水分の持っていかれた口の中に、温かい紅茶が広がり、後味を調整していく。
うまいこと乗せられた私はカウンターから逃げ出すわけにもいかず、置かれた新聞の一面に目を通した。
新聞。白森まで届けてくれる人がいるはずもなく、まともに目にしたことは無かった。魔石を用いているのか、印刷という技術は確立しているようだ。
小屋にある魔導書も、リサのお師匠が残していった古くて貴重なものは魔法による自動筆記らしきものが多いが、新しい書籍はしっかり印刷されているもののようだった。
「ん……?」
一面の大きな見出しが真っ先に目についた。
「ねえ、ミォナ。ギルジアって……?」
「ああ、びっくりだよね。そっか……あの子の……お兄さんなんだもんね。ごめん、真っ先に伝えるべきだったかな」
ギルジア王子、死去
大きな見出しは、ある人の死を実に端的かつ残酷に伝えていた。
「第二子として生まれたギルジア王子……革新的な考えや行動力により国民から愛され……第二王子なんですね? 一体どうして……? 病にかかり、別邸で治療を……懸命の処置にも関わらず……病気でってこと?」
「うーん、なんかそうみたいよ? 実際、かかったのは最近で、それからは早かったみたいね」
「……そんな、あっけなく」
アカネが言うには、彼女にアリシアの暗殺を依頼したのはギルジア第二王子だ。その人が、それからほどなくして病没したということになる。
では、ギルジアは刺客を放ってすぐに病に倒れたということだろうか?
何となく辻褄が合わない気がしたが、こんな新聞が発行されるほど公にしておいて、実際に死んでいないこともありえないだろう。
でも、確かめずにはいられない。せめて、アカネにこのことを問いたださなければ。
「一部、ください」
「まいど、一部200ね!」
新聞を掴み、結局私はすぐに黒森に踵を返した。
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