第130話 絶対内緒
私は暗闇魔法の威力を知っている。
光のない、無音のあの闇の深淵を知れば人は……狂う。
そこに置かれる時間が長いほど、その効果は強くなるだろう。リサに私がかけられていたのも短い時間だったが、それでも一晩うなされるのには十分だった。
「だから……きっと閉じ込めてしばらく置いておくだけで、敵を無力化できる。そういう話でしたよね?」
「それは相手が普通の人間だった場合です。今回は違います」
「メイは相手の何を知っているんですか? そろそろ教えてください」
「それは私の過去とも関わりがあり……とにかく、今の状況を例えるなら、机の上にいた害虫を、カップを被せて閉じ込めただけに過ぎません。奴はそれだけでは
「いずれカップをどけて、直接とどめを刺さないといけないということですか? でも、それなら他の人よりも長く閉じ込めておくのはどうでしょうか」
「なるほど、確かに害虫と言う例えは優しかったかもしれません。敵はカップを食い破るかもしれないのですから。これは一時しのぎにしかなりません。直接手を下さなくては」
「それなら……やることは一つですね」
「ええ。しばらく待って、二人で向かいましょう。多少は敵を消耗させることができるはずです。ところで……アリシア様。盗み聞きはよくありませんよ」
「へっ?」
バタン、と、微かに開いていた扉が閉じた音が聞こえた。どうやら、アリシアはまだ抵抗を試みて、部屋からこちらを覗いていたらしい。
「ふぅ……敵を叩きましょう。ここから箒で向かえば、きっとちょうどいい時間ですよ」
「ええ。じゃあ……行きましょうか」
私はメイを箒の後ろに乗せて、また地面すれすれを走らせてバイクのように低空飛行をして、敵を捕らえた洞窟へと向かった。
そんな中、メイが何度も振り向いて、後ろを確認しているような様子を感じ取って、私はその理由を尋ねた。
「メイ、後ろからも敵が来ているのですか?」
「いえ……何でもございません。洞窟の敵に集中しましょう」
「そうですか? ……わかりました。そうしましょう」
気になったが、あまり他のことを気にしている余裕はない。メイなりに、小屋に残してきたアリシア達を心配しているのかもしれない。
洞窟に着くと、私は杖を構え、メイはナイフを手にして、慎重に中へと進んで行った。
かつてとこしえの氷片が置かれていたドーム状の空間の手前に、私が設置した鉄格子がある。
格子は壊されてはおらず、その奥は魔石で照らされた手前までの通路とは切り離されたかのように、不自然に真っ暗な闇で覆われていた。
「闇の魔石を使用した、設置型の暗闇魔法……」
「ええ。リサ特製です。破られてはいないようですが……」
私が牢屋を開けようかと近づくと、メイはその手を取って、私を引き留めた。
「しばらく見張りながら、待ちましょう。消耗させることくらいはできるはずです」
「しかし……大丈夫でしょうか?」
もう敵がここに閉じ込められて、数十分は経っているだろう。私がリサの魔法をかけられたのは、たった数十秒か数分程度。
それでも人によっては精神療法が必要になるほど危険だとリサは言っていた。
これ以上引き延ばせば、中にいる敵は精神崩壊してしまう可能性だってある。
「手加減は無用です。少なくとも数時間、夜になるまではここを見張りながら待ちましょう」
「そ、そんなことをすれば、本当に危険ですよ⁉」
「では何のためにこの牢屋を用意したというのですか。お嬢様。アリシア様を守るためでしょう? 目的を達するためならば、どこまでも冷徹になるべきです」
「そう……ですね」
私たちは待った。敵がその暗闇の中で、弱っていると信じて。
しかしこうして気を張って見張っていると、むしろすり減らされているのは自分の方ではないのかと思えてくる。
私たちには暗闇が見えているだけで、その奥に人がいるかどうかすら、見ることもできない。果たして本当にそこに捕えられているのだろうかと不安になる。
「ねぇ、メイ。敵のことをそろそろ教えてくださいませんか?」
暗闇魔法は音も完全に遮断する。私たちがどんな大声で喋っても、敵にその声は聞こえない。
私は洞窟の壁に背を預けてメイの隣に座り、そう尋ねた。
「相手は……アカネという暗殺者です。私の……かつての師匠です」
「メイの師匠……じゃあ、お強いんでしょうね」
「法外に。アカネは……暗殺者として完璧でした。今まで仕事をしくじったことは一度もありません」
「メイも一緒にお仕事を……?」
「はい。私は……気に入られていた方だと思います。先ほどの弟子の扱いを見るに。私が先ほど戦った弟子は幻影で倒せるほど弱く、アカネは弟子が倒されるのを気にもしていなかった」
「メイ、では……戦うのは辛いですよね? 今からでも小屋に戻って、二人を守ってくれても」
「お嬢様……私は……あの女と理解し合っていました。その方法は……おわかりでしょう?」
「メイの……愛情表現は……」
虐げ、虐げられ、その間、相手とだけで世界を埋めること。
「お互いの腕を研鑽する為とは名ばかりの、殺し合いに近いような、精神のやり取り。傷つけ合うことこそが抱擁だった。姉のようでもあり、育ての親のようでもあった。しかし……」
そんな相手と、まともに戦えるわけがない。
メイが黒森からすぐに逃げようと言ったのは、腕の良しあしではなく、単純に戦いたくない相手だったからなのかもしれない。
「でも私は、お嬢様にまともな愛情を教えてもらいました。本当の意味での抱擁を。もう、血の味や匂い、痛みを感じることで生きている実感を得なくても……お嬢様の暖かい体温を感じているだけで、生を実感できると気づいたんです」
「メイ……」
「ですから、問題ございません。ちゃんと……殺せます」
冷徹な声が、静かな洞窟に微かに響いた。
「メイ、ダメです。もう、殺さないで。私に任せてくれればいいんです」
私は思わずメイの手を取ってそう言った。
「お嬢様は甘すぎます。本当に守りたいものがあるのなら、それを脅かす者には徹底的にやらなければ」
「それは駄目です、メイ。私は……メイの過去を想像するつもりはありません。それを責めるつもりも無いです。でも、もし、メイが人を殺すところを、実際に目の前で見たら……」
想像もしたくない。人が死ぬところも見たくはないけど、何より、慣れ親しんだ人が人を殺すところを見たくなかった。
もしそれを見てしまったら、私は以前と同じようにメイと接することができなくなるような気がした。
「もし、メイが人を殺すところを見たら……私はメイを抱きしめることは……もう、きっとできなくなります」
「……それは。それは悲しいことです。しかし、甘んじて受け入れます。私はお嬢様を愛しておりますので、その身を守ることを第一に考えます」
迷いのない声色で、メイは言ってのけた。
「私は嫌です。メイとそんな関係になりたくない」
「お嬢様は甘すぎます。何でもかんでも、理想論で手に入れることはできないのです。お嬢様は……確かに強い。まるで
「はい……確かに、そうですが……」
そんなことは、何度でもある。
シャルロッテが、神速の攻撃魔法を使える相手だったら、決闘で命を落としていたかもしれないし。
ネーナが変な奴じゃなければ、馬乗りになられて槍で貫かれて、死んでいたかもしれない。
「そんな馬鹿げた理想論の、わがままを通すためには……私は何だってすると、覚悟しています。だから、メイが師匠を殺さなきゃいけないなんて、そんな悲しいことは許しません」
「……お嬢様、やはりあなたは……? しかし……私は、手加減をすれば死ぬかもしれません。だから一つ約束してくださいませんか?」
「約束?」
「もし私がアカネを殺さず、そしてお嬢様も私も無事で元の生活に戻れたのなら……その時は」
メイは意を決したように、手を強く握った。
「私にキスを」
「……メイに?」
「生涯に一度きりで構いません。お嬢様の一番はアリシア様だと、わかっていますから。だから、たった一度の、命を賭けたご褒美を……私に下さい」
「……メイ。私は……そういうことはあまり好きではありません」
「……そうですよね」
「ごめんなさい。アリシアにも、メイにも、とても失礼なことだから。だから……」
「いえ、私の方こそ……」
「だから絶対、内緒ですよ」
私はそう言って、メイの頬に手を添えた。
そして軽く、唇同士を合わせる。
息を止めたまま、数秒。
空気越しでも体温が伝わるような、世界で最も近い距離。
本当に静かだった。でも鼓動だけは早くて……
メイと何かするときは、私はいつも背徳感を覚えているような気がする。
何で私はこんなことをしているのだろう。普段だったら絶対に、自分からそんなことはしないというのに。
決死の戦いの前に、そんな約束をするのが、私は嫌だった。
それくらいなら、先に希望を叶えてしまえば……かえって万事上手くいかないだろうか。
だから、これは、祈りに近い、そんな行為だと思う。
そうやって心の中で言い訳をしながら、私は唇同士を離した。
「お、嬢様……」
あのメイが、顔を真っ赤にして、目を逸らした。
それを見て私も死ぬほど恥ずかしくなって、お互い隣に座ったまま、顔を背けた。
「ぜ、絶対内緒ですから……一回だけですから……」
「そ、それ以上は何も言わないで! ……ご、ごめんなさい、アリシア様。私はこんなつもりでは……」
「うぅ……だから言わないでくださいよ?」
「……本当にごめんなさい……」
決戦の時が来るのを私たちは待った。
気まずい時間が流れる中で。
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