第105話 黒と白


 暗い暗い、深い深い闇の中。


 どんどんどんどん落ちていく。


 沼。いや、深海。


 光が遠ざかって、やがて届かなくなる。


 真っ黒な石油みたいな液体が、体中に纏わりついて息もできない。


 耳鳴りが妙にうるさくて、心臓がどっどっ、と早く鳴る。


 そうすると冷や汗が吹き出して、自分から黒い霧がどんどん染み出してくるようで、さらに闇を深く染めていってしまう。


「うるさい……」


 小さな自分の声がガンガンと頭に響く。


 口はわざわいの元だ。私が一度口を開けば、誰かが傷つく。他人か、自分か、どちらかが。


 それが嫌で口を閉じれば、こうして沈黙があまりにうるさい。


 着せられたような白いドレスに、墨を垂らしたように黒が広がる。


 嫌だ……


 虫が放たれたみたいに黒が広がるのが気持ち悪くて、必死で布を叩いてそれを止めようとするけど、止まるわけがない。


 こぼした墨は広がっていくばかりで、洗っても二度と落ちることが無い。これが黒の本質だ。一切の色を塗りつぶして、二度と返してくれない。


 全身が黒く染まったころ、身体が重くなったように動かせなくなる。




 どす黒い何かが、誰しもの身体の中では蠢いている。それが私の信仰だった。


 私は少しだけ、それを隠すのが下手なだけなのだと。


 だけどしばらく生きてみたら、世界が黒いのは自分の目が濁っているからだと気づいた。


 他の人はちゃんと白くて、心の中まで清いんだと、気づいてしまった。


 白くなりたかった。黒を消し去りたかった。清廉潔白でありたかった。でも一度黒く染まったものは元に戻らない。さっきの墨みたいに。分かり切ったことだ。


 黒いまま惰性で生きて、繰り返しを繰り返して、自分のしていることが無意味どころか、かえって世界の邪魔をしているように感じた。


 自分さえいなくなれば、世界が完全になるような、そんな気がした。


 だから自分から世界にさよならしたのか、それともその前に迎えが来たのか、もう忘れてしまった。




 パチン、と、引っぱたかれたような音がした気がした。



「さようなら、お姉さま。今まで楽しかったです」



 沈む黒とは真逆の、飛び立つような白くて綺麗な声が響いた。



「今までありがとうございました。お姉さま。私はリリアお姉さまのところへ帰ります」



 小屋の玄関の前に立ったアリシアは、振り向いて笑顔でそう言った。


 いやだ、行かないで。置いていかないで。


 そう言いたいのに口は開かない。身体も動かない。


 硬直したまま、時間に置いていかれたみたいに、私は突っ立っている。


 胃の中に石を縫い付けられたみたいに、気持ち悪くて身体が重くて立っているのがやっとだ。


 アリシアは扉を開いて、外へと出ていく。外から光が差し込む。真っ白で明るい世界だ。


 行かないで。


 アリシアは最後に振り向いた。その顔は満面の笑みで……


 アリシアを行かせた方が彼女の幸せなのだと、悟ってしまう。


 自分さえいなくなれば、世界が完全になる。どこへ行っても同じことだ。


 大人だから先生だからアリシアが大事だから。


 だったら……彼女を行かせるべきだ。


 バタン、と扉が閉じて、再び真っ暗な世界に落ちる。




「光は……触れると暖かいんです。世界は美しくて、生きるに値するものなんですよ」


 アリシアの言う通りだ。だから私は生きるに値しないのだ。


「光があるから、全ての物に色がつくんです。世界は白か黒かだけじゃないんですよ、お姉さま」


 魔石のオレンジの光が、暗闇に浮かぶ。


 それは少しずつ増えていき、遠くまでいくつもの明かりが浮かぶ。


 まるで満天の星空のように。


 こんなに夜空が綺麗なら……やっぱり今日は死にたくないな。


 そうだった。全部やめにしようと思ったあの日。


 最期に綺麗な夜空を見上げたその時、まだちゃんと泣けることに気づいたんだった。




「ぁ……」


 右手が真っ直ぐ天井に伸びている。


 光を受けて白く輝く自分の手が眩しい。


 世界は私が必要とする以上に明るくて、つい目を細めてしまう。


 すると閉じた目の端から、ぽろぽろと涙が流れ落ちた。


 嗚咽は無くて、ただ音もなく涙は零れた。


「あれ」


 頬を触れると濡れている。泣いていたらしい。


 鳥の声が聞こえる。森の小屋では音楽代わりで、都会の喧騒よりずっといい。


 朝だ。


 これは現実だろうか。


 純白のシーツが素肌に直接触れる感触。外に出た肌は、微かに冷たい朝の空気に触れられている。


 鬱陶しい、長いふわふわした髪が、背中や肩を撫でている。


 自分の呼吸の音がする。でもそれは頭の中に響かない。空気を通して聞こえてくる。さっきまでとは違う。


「裸……?」


 直接触れるシーツの感触は心地いい。締め付けるような下着がないままベッドに入るのはいつぶりだろうか。


 私は上体を起こした。


 そうしてふと、隣を見ると。


「ん……?」


 アリシアが隣で寝ている。


 白い華奢な肩が、シーツから少しだけ出ている。人形みたいに綺麗に、私の横に転がっていた。


 私も裸。アリシアも裸。


 アリシアは隣に寝ていて、私は……


 お酒を飲んでから記憶が無い。


「やっ……」


 記憶は戻らない。


 でも、その一番大事なその夜を、無意識のまま私は迎えてしまったのだろうか?


「やっ……ちゃった……?」




 鳥の声が聞こえる。


 音楽代わりだなんて、とんでもない。


 そう、いわゆる……


 これってもしかして、朝チュンってやつ……?

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