第31話 天秤


 ぱち、と目を開けてすぐ、私は寝ている間も頭を占めていた一言を叫び、体を起こした。


「アリシア!」


 しかしすぐに、腕の刺すような痛みとズキズキした頭痛が、こちらをもっと気にしろとばかりに意識を奪っていく。


「……っぐ……痛い……!」


「あ、お、お姉さま! 駄目ですよう、急に体を起こしたら」


 ベッドの脇に座っていたアリシアが、そっと肩に触れてそう言った。


「アリシア……よ、よかった……まだいた」


 何よりもまず、アリシアが私を置いて行ってしまっていなかったことに、私は安堵した。意識を失って、アリシアに私から見つからないようにと置いて行かれたら、それでもう二度と会えないところだった。私は胸がかっと熱くなるのを感じながら、アリシアの腕を抱いた。


「もう、お姉さまったら無茶をして。怪我してたのに、飛んで来たんですか? 落ちたらどうするんですか」


 アリシアは眉を八の字にして、困ったように私を心配している。


「だ、だってアリシアが……行っちゃうから……こ、ここは?」


 私はベッドに寝かされていたが、そこは自分の見知った小屋の寝室ではなかった。しかし、丸みを帯びたデザインの家具や天蓋付きのベッド、花を象ったような照明のガラス細工、レースの綺麗なカーテンなどを見るに、そこはどうやら女性の部屋のようだった。


「町長さんの娘さんのお部屋です。今は街の外の学校へ出て行ってしまったので、しばらく使っていないんだそうですよ」


「そ、そうですか。ご迷惑をおかけしてしまった……」


「聞きましたよ、お姉さま。街の人に、私のことを聞いてまわったんですってね」


「はい……。もう通り過ぎてしまっていたらと思って、皆に聞きましたよ。でも、まだ来ていなかったので無駄でしたけど……」


「……私、ね。薄々気づいているんです。お姉さまが、街の人のこと苦手だっていうこと」


「街の人がっていうか……まぁそうだけど……」


 街の人が苦手、というより、実際にはアリシア以外の人間全般が苦手なのだ。


「それなのに、怪我の身体を押して駆けずり回って、私のことを、そんな苦手な街の人に聞いてまわったてた、って聞かされて……さすがに私……倒れたお姉さまを置いていけませんでした」


 アリシアは、と困ったように目を細めて笑った。やはり、そのまま行ってしまおうかと迷いはしたらしい。本当に残ってくれていてよかったと、私は改めてほっと胸をなでおろした。


「……そうですか。それなら……無理して皆に聞いてよかった、かも」


何も話さずに行ってしまうのは、私も良くないと思うから……」


 ほっとしたのも束の間、その言葉を聞いて、まだ何も解決していないのだと私は改めて思い知らされる。


「聞いたんですよね、メイに。私のこと……」


「うん……びっくりしました」


「私……すごく居心地がよかったんです。だって、あんなに長く一緒にいたのに、お姉さまったら私が王女だってことに全然気づかないんだもの!」


「はは……普通気づくんですよね……恥ずかしいです」


 もしかしたら、街の人も気づいていたりするのだろうか? でもメイはアリシアが失踪していることすら公にはされていないと言っていた。さすがに街のみんなも、こんな辺境に王女がいるなんて思いもしないだろう。


「でもそのおかげで、私自身、自分が王女なんてこと忘れて、ただの白魔女の弟子でいられたんです。それって凄く幸せで、まるで生まれ変わったみたいでした」


「……うん」


 アリシアは少し俯きながら、思い出を嚙みしめていた。私もアリシアとの日々を思い出し、はしゃいでいたアリシアの笑顔を思い出す。それが取り繕ったものではなかったと聞かされて、私は少し安堵した。


「……でも、過去は、責任は、追いかけてくるものですね。心のどこかでは気づいていたんです。そんな生活、ずっとは続かないって」


「……はい」


 それは、私も感じていたことだ。アリシアはいつか小屋を出ていく。私はそれを見送る。そんな決まり切った未来は、いくらアリシアとの距離が近づいても、いつだって頭をよぎっていた。


「……お姉さまに迷惑はかけられません。王都の人たちは白森の街の人と違って、裏で何を考えているかわからないのです。お姉さまにも危険が及んでしまうかもしれない。だから……」



 アリシアは寂しそうに、笑った。



「さようなら、お姉さま。今まで楽しかったです」



 絶対に聞きたくなかった、でもいつか聞くと思っていた別れの言葉を聞いて、私はアリシアの手を強く握った。絶対逃がさないと、表明するように。アリシアが痛がるほどに。


「お、お姉さま?」


 こんなのは、違う。


 別れの言葉はあってもいい。でもこんな、寂しい笑顔と一緒に聞く、空虚な言葉であってはいけないはずだ。アリシアは魔法を修めて、心を整理して、自分の出ていきたいという意志で、小屋から旅立つべきだ。その時初めて……私はアリシアを笑顔で送り出す。


 その後私は……ベッドに潜り込んで三日三晩泣き続けるだろうけど。


「行かせません」


 譲れないものなんて、今までなかった。欲しいものがあっても、理由をつけて諦めてきた。だけど初めて、意地を通したいと思う大切なものができた。そうしたら、もう世界のことなんて、相手の気持ちなんて、どうでもいいのだ。


「で、でも。お姉さま。分かっているんでしょう? このままではいられません」


「分かってません。王都の事情なんて。アリシアを大切にしない人たちのことなんて、どうでもいいです」


 リリア王女亡き今、アリシアの心を、苦しみは、気持ちを、誰も慮ってはくれない。そんな王都など、捨ててしまえばいい。


「でも、私は王女で、国民を守る義務があって……お姉さまにも迷惑がかかって……だから……」


 消え入りそうな声で、アリシアは言う。


「知りません。そんなこと」


「でも……でも……」


 アリシアはどんどん喉がきゅっと締まって、ついにもう言葉を話せないみたいになった。


「アリシアは……森で暮らす、悪い魔女の弟子になったんですよ? そう簡単に……逃げられると思っているんですか?」


 涙をこらえるアリシアを抱きしめて、私は言葉を続ける。


「人に優しくて、困った人を放っておけない、素敵な魔女だと思いましたか? そんなおとぎ話を信じてしまったら最後。残念でした。私は王女をさらって、逃がしはしない、邪悪な魔女なんです」


「そんな、でも、私は、お姉さまが、また死んじゃったら、もう」


 アリシアは嗚咽でほとんどしゃべれないようで、呼吸を優先した方がよさそうなほどだったが、なんとか言いたいことは伝わってきた。


 また、死んじゃったら。その一度目は、メイから聞いた、リリア王女の死のことだろう。アリシアは、自分が私のもとに残ることで、私がリリア王女のように死ぬことだけは避けたいと思ってくれている。でも、だからこそ、言わなくては。


「私は……リリア王女みたいにちゃんとした人でも、いい人でもありませんよ。だから、生まれ変わりなんかじゃありません。ごめんなさい。でもはっきり言います」


 少しためらい、それでも……私とアリシアの今後を考えるのなら言うべきだと思い、私はその残酷な言葉を口にする。


「リリア王女は……もう、いないんです」


「うぅ……お姉さまぁ……!」


 私の残酷な言葉をきっかけにして、アリシアは堰を切ったように身体を揺らして泣いた。悲痛な声に、私がそれを出させたという罪悪感が胸を引き裂く。


 今、アリシアが口に出して呼んだ”お姉さま”は、きっとリリア王女のことだろう。私の胸の中でリリア王女のことを思ってアリシアが泣いていても、不思議と私は嫌な心地がしなかった。むしろここにいてあげられてよかったと、そう思った。


「……それでも、”お姉さま”の代わりになれなくてもいいのなら……私を私として、少しでも慕ってくれるのなら……私はもう二度と、愛弟子アリシアを離しません。軍団が来ても、王様が来ても、神様が来ても、死ぬまで離しません。ぜったい、そうします」


 言いたいことを、言うべきことを、私はちゃんと言えているのだろうか。こんな大事な時にまで、頭の一部は冷静に、真っ直ぐな気持ちを伝える私を馬鹿にしている。


 そんなこと、お前に本当にできるのかと、不安を煽り、唆す。でもそれでいいのだ。私はそういう、ひねくれた人間なのだから。そういう一部は単に私のほんの一部であって、今、私の身体を支配することはない。


「でもやっぱり……無理強いはできません。後ろ髪を引かれるアリシアをそばに置いていたって、私も苦しむだけですから。だから、今度はこっちから聞きます。アリシア自身は、本当に、王都に、戻りたいですか?」


 アリシアは答えないで、ただ泣いている。


「戻るべきかどうかは聞いていません。戻りたいかどうか、それを聞かせてください」


「私……は……」


 アリシアは胸の中で泣いている。必死で続きを口に出そうとしているが、嗚咽がそれを押しとどめている。


 次の言葉が、王都に帰るというものだったらと思うと、怖くて怖くて、私は聞きたくなくて、アリシアが私の一番近くにいるまま、時間が止まればいいのにと思った。


「もう嫌だよ……戻りたくない……お姉さまがいないお城なんて……怖いよ。寂しいよ、辛いよう……」


「アリシア……」


 大事な人と暮らした大切なその場所は、いつだってその人との大切な過去を思い出させる。だけどそれに付随するように、その人の死を、二度と会えないという事実を、必ず一緒に想起させる。


 忘れないと辛くて生きていけないのに、絶対に忘れたくないから何度も鮮明に思い出す。でもそのたびに、心がどんどん壊されていく。


 私はそういえば、そんな悲しみを知っていた。でも前世で知ったその気持ちも、やっぱり少しずつ、忘れてしまっていたのだ。それって……やはり悲しいことだ。どこまで行っても、いつまでたっても、人の死は、形を変えて、違った悲しみとしてずっと心の一部になってしまうのだ。


 私はアリシアを慰めたいのか、自分が慰められたいのかわからないような気持ちで、アリシアをまた強く抱いた。


「だったら、帰りましょう、私たちの家に」


「……本当に、いいんですか? 私、王女なのに、逃げていいんですか?」


 涙をぽろぽろ流して、私を見上げるアリシアを、やはり正面切って見つめると、私もその度息苦しくなる。でも、私がしっかりしなくては。


「アリシアは逃げてませんよ。悪い魔女の私が誘拐しているだけです。それでいいじゃないですか。だからアリシアは……、人質生活を謳歌すればいいんです」


「もう、何言ってるんですか? こんなときまで……お姉さまったら」


 アリシアはそう言って、涙を流しながらも、くすっと笑った。


 そんな真逆の感情が浮かんだアリシアの貴重な表情を、私はこれから先また見られるのだろうかと思うと、アリシアには悪いけど何だか口惜しい気がした。


「や、やっと笑ってくれました。もう三秒くらい泣かれたら、私の方が泣くところでした……」


「……そこは最後まで強気でいてくださいよ。もう……やっぱり、お姉さまはお姉さまなんだから……」


「え、何? 私、呆れられてます?」


「知りません!」


 アリシアはすくっと立ち上がると、後ろを向いて、これで最後とばかりに、勢いよく腕で涙を拭った。そして振り返った時には、目は真っ赤ではあるものの、いつもの笑顔が戻っていた。


「ほら、帰るんですよね。行きますよ!」


「も、もう……アリシアは人質なのに……」


「はいはい。頼りない誘拐犯ですこと」


 私は自分よりはるかに強気で頼りになる人質に手を取られ、ベッドから立ち上がった。少しふらついたが、アリシアは素早く私を支えて、微笑んだ。


 早速支えられていて、格好がつかないとは思いながらも、こうやって補い合いながら、これからも二人で過ごしていけたら……なんて甘い考えを私は密かに抱いていたのだった。

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